Free Web Hosting | free host | Free Web Space | Web Hosting
クーデター − フィリピン

私のようなバックパッカーにとって、旅に欠かせない要素と聞かれれば、私は「出会い」と「アクシデント」と答えるだろう。私の数ある旅の中でも最大のアクシデントといえば、89年12月、フィリピンのマニラで起こった出来事である。

89年11月12日、私は台北の国際空港をあとにしてマニラに向かう飛行機の人だった。台湾での滞在期間が六ヶ月になり、ビザの更新のために台湾(国名は中華民国)国外に出る必要があったためである。私は台湾では条件の良いアルバイトにいくつもありついていたの,生活には全く困らず、日本から持ってきた30万円をほとんど使わずに残していた。その金で、フィリピンを皮切りに、タイ、マレーシア,シンガポール、インドネシアと、東南アジア各国を2ヶ月くらいかけて回る予定だった。台湾に帰れば条件の良いアルバイトがいくらでも見つかると思っていたので、30万円はほとんど使い切る予定だった。後から考えてみると、それだけは見事に実現したのだが・・ 

フィリピンには、セブ島やルソン島,ボホール島などに以前からの知り合いが各地にいたので、彼らの家を泊まり歩くことにした。フィリピンではノービザで滞在できる期間が3週間だが、あっという間に3週間が経ち、翌日の12月2日にバンコクに向けて発つつもりだった。ところが、そうは問屋がおろさなかった・・

あの日、12月1日の早朝、私はマニラ中心部から南東に約60キロ離れたロスバニオスという街の友人の家に泊まっていた。すでに、翌日バンコクに発つための旅支度を済ませていた。その時、友人のジーノが私の寝室に駆け込んできて、息せき切って,「大変だ。マニラでクーデターが起こった」と言った。そして続けた「マニラへ発とう,今すぐ」。その時、マニラ市街地では銃撃戦が行われており、死傷者も多数出ているようだった。特にマニラの外環道路沿いのEDSAという所にあるテレビ局近辺で、アキノ政権側とクーデター首謀者とみられるホナサン大佐側の軍が,激しい攻防を繰り広げていた。私は一瞬、そんな危険な所へなぜ行くのかと疑問に思ったが、だいいち動乱時にどう行動したらいいか全く見当もつかないし、フィリピンの友人についていけばまず間違いはないだろうと思って、ついていくことにした。その時までは、クーデターは間もなくおさまり、翌日バンコクまで発てると半分以上信じていた。

フィリピン庶民の足であるジプニー(ジープ を改造した乗り合いバス)を乗り継いで、60キロ離れたマニラに向かう。マニラに近づくにつれて車の渋滞がひどくなり、度重なる検問に緊迫の度も徐々に増していった。結局、5時間かかって、マニラの中心、マラテ地区にあるジーノの下宿(というよりスラム)に着いたわけだが、市街地はいつもは人でいっぱいのはずなのに,この日だけは人通りがまばらで、閑散としていた。その静けさが、緊張感をより一層強くしていた。私たちの居場所から激戦地である北東方面に向かうジプニーの運ちゃんによると、あと1キロ以上先へ行くと危険地帯だという。また、タクシーも北へ向かう客に対して乗車拒否をしているようだった。空を見れば南の方角から政府軍のものと思われる飛行機がひっきりなしに轟音をあげて激戦地の方角へ去っていった。私は、下宿にたった一台の旧式の小さいテレビに見入りながら、戦局を見守る以外になかった。子だくさんのフィリピンではご多分にもれず、下宿先には10人以上の子供がおり、子供たちに絶えずちょっかいを出されながらのテレビ観戦(?) だった。結局、その夜は、6畳ふた間くらいのスペースに12人が寝るというこの下宿で、折り重なるようにして眠った。

次の日、マニラは快晴だった。EDSA方面ではテレビ局をめぐる攻防はまだ激しく、空港や大使館は当然閉鎖、私はバンコクに発つことができず、フィリピンで足止めを食うことが確定した。結局やることもないので、スラムの住人のおにいちゃんたちとトランプ賭博をして、数百円負けたり、また彼らにサンミゲルビールをおごってささやかな酒盛りをするなどして、無為に過ごすしかなかった。

翌日、12月3日,テレビ局近辺の攻防はほぼ政府軍の勝利に終わろうとしていたが、戦闘の中心はビジネス街、マカティ地区に移りつつあった。この地の日本人ビジネスマンも多数缶詰め状態になっていると言う。この日も前日と同じように無為に過ごした訳だが、いつ終わるとも知れない戦闘にうんざりしてきた。一日も早く戦闘が終わり、マニラを抜け出したいと祈っていた。また下宿先の食事は質素で,1日2食の食事は毎回ご飯一膳とパンシットダガッ(つりえさの「ごかい」のようなもの)だけと相場が決まっており、飽食に慣れた我が身の弱さを思い知らされることとなった。後から考えるとこの食事を2週 間続けて、かなりハングリー精神がついたと思うのだが。

次の日の早朝、マカティ地区の戦況は激しさを増してきた。うんざりしていたその日の朝、ジーノが「タガイタイに行こう」と提案していた。タガイタイは、マニラの真南、約60キロにある風光明媚な避暑地で、火山とカルデラ湖を控えた「フィリピンの摩周湖」ともいうべき所である。タガイタイでは、高級ホテルのプールでうさばらしも兼ねて泳ぐことにした。お金だけは十分残っていたので、ジーノにプール代をおごることにした。

しかし,悲劇が起こったのはその時だった。それは一瞬のできごとだった。私はパスポート他、現金やT/Cを腹巻きに入れていたのだが、プールに入る前にはこの貴重な腹巻きの処置に困った。結局腹巻きを目立たないように服の下に隠し、これで大丈夫だろうとタカをくくっていた。そして、ちょっと目を離したすきだった。腹巻きを確かめてみたら,現金がそっくり抜き取られていたのだ。現金は日本円で17、8万円はあっただろうか。誰の仕業だろうか、あまりにも見事な手口に、私は唖然とするしかなかった。本当はやりたくはなかったが、ジーノも疑ったりもした。しかし、現金は天下のまわりもの、その現金をとられたのだから、誰に取られようとあきらめるしかなかった。そして、今後のタイ以降の旅程もあきらめ、1日も早く日本に帰らなくてはいけないことを悟った。幸い、トラベラーズチェックの6万5千円分だけは残っていたので、その金で日本への片道航空券を買うことに決めた。

それから数日後、12月の8日あたりだったと思うが、マカティ地区の激戦地で缶詰めにされた邦人を救助するため、日本大使館が救援バスを仕立てたというニュースが入ってきた。ニュースをよく読むと、日本大使館の窓口が激戦地から離れたマニラ湾岸地区のホテルの一室にあるという。私は日本大使館に行けばいろいろ情報も入るだろうし、暖かいおもてなしが待っているものと思いこみ、炎天下の道をホテルに向かって喜び勇んで歩いていった。しかし、それが甘かった。邦人ビジネスマンの救助に疲れ果てていた大使館の職員の目には、ヒッピー然として薄汚いTシャツ姿の私は厄介で無責任な旅行者以外の何者でもなかったらしい。彼は虫けらでも見るような目で、「私はあんたたちにかまっている暇はない。クーデターが終わったら早く日本に帰りなさい」と、冷たく言い放った。私はこの一生で、この時ほ ど役人というものを嫌悪したことはなかった。結局,心の中 で悪態をつきながら、炎天下の道をとぼとぼとスラムに歩いていった。

そんな無為な日々のなかにも、一つ楽しいことがあった。それは、下宿から歩いて5分とかからないところに、中国系フィリピン人の女の子、ジュビナが住んでいたことだった。彼女の家は金持ちで,いつも美味しい中華の肉料理を食べていた。毎日つりえさのような食事にうんざりしていた(といっても、経済的に大変な中で食事を出してくれるスラムの人のご好意はありがたかったが)私は、昼飯時にはジュビナの家に遊びに行き、昼食をごちそうしてもらうのが日課になっていた。現金をすべて盗まれ、いまやほとんど一文無しになっていた私に、同情してくれたのだと思う。

そして12月14日、約2週間にわたって続いた戦闘は、アキノ政権側の完全な勝利に終わり、大使館、空港,銀行も久々に営業を始め、街は活気を取り戻していた。私は早く出国手続きを済ませ、すぐにでも日本に帰ろうとしていたその矢先,またもやアクシデントが追い打ちをかけてきた。私のパスポートの写真がはがれていて、使えなくなったのだ。その理由はいまだもってよく判らない。恐らく、 腹巻きに入れている時に何らかの拍子に折り曲げてしまったのかもしれない。結局 現地の日本大使館でパスポートを再発行せざるをえなくなったのだが、通常パスポートの再発行は2週間ほどかかり、その間にはフィリピン最大のお祭りであるクリスマスの長い休暇をはさんでいるため、パスポートの受け取りが来年になってしまうとのことだった。

手持ちの金も底をつき始めていた私は、冗談じゃないということで、1日も早く日本に帰る方法を模索した。聞くところによると、パスポートなしで日本に帰るためには、緊急時に限ってトラベル・ドキュメントという書類を発行し、パスポートの代用とすることがあるという。そんないい方法を使わない手はないと思った私は、すぐさま日本大使館へ行って、「妹が危篤」だというウソをついて、何とかトラベル・ドキュメントを翌日,発行してもらった。書類の発行には日本円で1万円くらいかかったのだが、持ち金が底をついていたので、現地在住の日本人神父の西本さんという方にお金を借りて代金を払うという始末だった。このような悲喜劇を繰り返しながら、12月16日、再び日本の土を踏むことができた時は、まさに感無量,これほどまでに自分の国がありがたく思えたこともなかった。

このような大変な思いをしたフィリピンだが 、実は私の訪れたなかで、最も好きな国の一つである。いかにも南国らしいのんびりした雰囲気、緊張とはおよそ無縁な生活のペース,踊りと歌をこよなく愛する陽気な人々,精一杯のおもてなし,そして人なつこい子供たち,私はフィリピンほど、子供たちの目が輝いている国を私は他に知らない。フィリピンは最近政情も安定し、経済発展も順調なようだが、マニラなど大都市の治安の悪さは相変わらずだという。しかし、あの子供たちに会いに、私はまたマニラへの旅支度を始める。

 

 

文頭に戻る

作者宛メール