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シドニー日記・職業生活編第91回

誰かを傷つけてしまったら(2003/8/1)


 自分の何気ない一言で、誰かの心を傷つけてしまった。悪意は全然なかったのに、相手を不愉快にさせてしまった・・・こんな経験は、誰にでもあるでしょう。

 これって、お互いにとって、気持ちいいものではありません。傷つけられた方はもちろん不愉快だし、また傷つけてしまった側も、自分が原因で事を起こしてしまったのなら、心中穏やかではないでしょう。「俺はなんであんなことを言ってしまったんだ!」と、自分を強く責め立ててしまう人もいるでしょうし、「悪気は全然なかっのに、なぜ・・・」と、運命のいたずらを恨む人もいるでしょう。極端な場合、相手を逆恨みする人もいるでしょう。

 でも、私たちが人間である限り、こればっかりは避けられません。所詮、他人と自分は全く別の人間。彼らは自分と違う環境で育ち、違う人生経験を積み、別の脳みそで物事を解釈しているのです。自分が言った言葉が、本来の意図とは全く別の意味に解釈されてしまうなんて当たり前。相手に「良かれ」と思って言った一言なのに、それが時には相手を傷つてしまう。悩みぬいた末慎重に選んだ言葉でさえ、誰かを不愉快にさせてしまう。

 私たちは、そういう痛い目に何度も遭いながら、「こういう場合はこう言っちゃいけない」、「誰に対してこういう言葉を使ってはいけない」みたいな、TPOをわきまえた言動を、徐々に身に付けていきます。それでも、100%完璧にマスターするのは、不可能です。自分の立場や、事態の局面が変われば、要求される言葉遣いも変わってきますし、また時代が変われば、「セクシャル・ハラスメント」とか「ポリティカル・コレクトネス」みたいな、新しい概念がどんどん出てきて、「気をつけなくちゃならないこと」がどんどん増えていくから、大変です。人間やるのって、本当に疲れますよね〜。

 前置きはこのくらいにして・・・私も先日、やってしまいました。無造作に使った言葉、正確に言うとメールに書いてしまった言葉が、同僚の女性の心を傷つけてしまったのです。そのことによって、私自身も 大いに傷つき、悩みました。ひょっとしたら、傷ついた彼女以上に精神的にキツい思いをしたかもしれません。そして、いろいろ考えさせられました。


 ことの顛末はこうです・・・・私はいま職場で、テクニカルサポートとアプリケーション開発という、二足のわらじを履いています。ですから、サポートチームと開発チームという、二つのチームに属し、会議も二つのチームから召集がかかります(だから忙しい・・・)。そして、香港出身、豪州に移住して15年余りになるナンシー(仮名)も、私と同じように二つのチームに属し、忙しい日々を送っています。

 ナンシーは、もともとの体質がそうなんでしょうか、ちょっと病気がちです。昨年11月末から、4ヶ月もの長期病欠を取り、今年3月末に復帰してきました(病名は不明)。それ以降、月数回通院しながら、フルタイムで頑張って働いています。

 7月23日、火曜日の朝のことです。私とナンシーは、開発チームの定例会議に出ました。開発チームのリーダーは女性なんですが、言っちゃ悪いけどチームリーダーとしての資質にやや欠けるところがあります。まだ経験が浅いから仕方ないんですけど、とにかく仕事のすすめ方に余裕がないし、融通がきかない。自分のひいたスケジュール通りにきちっとやらないと気がすまないし、シナリオ通りにことが進まないと我々実作業者に過度 なプレッシャーを与えてしまうところがあります。もちろん、彼女自身もそれを意識して直そうと努力してる形跡はあるんですが、それでも忙しくなればなるほど、「地」 が出てしまうようです。

 この会議でも、彼女のそういう悪い面が出てしまいました。チームメンバー一人づつに、進捗状況を確認していたところ、私一人だけが、全く進捗していないことが発覚しました。もっともこれは、仕方ないことです。その直前の週は、サポートチームの仕事がとにかく忙しく、残業までしていたし、その上ナンシーが病欠とってその分の仕事まで私に回ってきたのですから、開発チームの仕事まで到底手が回るわけがありません。

 その辺の事情は、開発チームリーダーも分かっていたはずです。ですが彼女の口から出てきたのは、「これまでのことは仕方ない。でも、今後もそんな調子では困る!」という言葉でした。 「だから、これから開発チームの仕事にちゃんと(1日4時間以上)時間を取れるかどうか、サポートチームの面々ともちゃんと確認して欲しい」(注1)

(注1)参考までに言いますと、こういうチーム運営は、オーストラリアのチームリーダーとしては「やっちゃいけない」ことです。 この国では、実作業者のワークロード(作業量)調整はチームリーダーの仕事とされています。私のように、二つ以上のチームにまたがって作業する場合は、チームリーダー同士が事前に調整して、例えば「何月何日までは、開発チームに60%、サポートチームに40%・・・」というように、まず文書で確認をとり、その上でスケジューリングをするのが筋です。今回のように、実作業者にワークロード調整まで 要求するのは、本末転倒です。

 間の悪いことに、当時、サポートチームリーダーは当時休暇を取っていました。そこで、実作業者の一人がリーダー代行をつとめていましたが、彼は連日超多忙で、夜も家に仕事を持ち帰る有様。そういう事情もあって、開発チームとサポートチームのコミュニケーションが ほとんど取れていない状況でした。その狭間で、私はある種のプレッシャーを感じていました。

 会議が終わると、私は早速、サポートチームのリーダー代行宛てにメールを書き、ナンシーや開発チームリーダーにもccしました(注2)。その趣旨 をかいつまんで言うと、今後2〜3週間のあいだ、私がやるべきサポートチームの仕事を一つ一つリストアップして、それぞれにどのくらいの時間がかかりそうか、 私の理解するところを書き、どうしても開発チームの仕事に時間を割けない場合は、代行を手配するなりして、至急スケジュール調整をして欲しい、ということでした。このメールが後に物議をかもすことになるとはつゆ 知らずに・・・

(注2)ccは「カーボンコピー」の略。電子メールの機能で、直接の宛先ではないけれど、関係者一同に参考や報告として情報を共有したい時に使います。詳しくはこちらをご参照ください。

 私は、急いでいました。このメールを書いた後、やるべきことが山ほどありますから、この一件を早く片付けたい気持ちが、ついつい先走ってしまいました。面白いことに、こういう余裕のない時に限って、私の書く文章はなぜか饒舌になり、「ねえ、聞いて聞いて・・・」的な話し言葉調になってしまうのです。そして今回も、ついつい筆(キーボード)がすべって、要らんことを書いてしまいました。今の状態では、ナンシーが病気したら、私は残業せざるを得ない・・・」と

 悪意は、これっぽっちもありませんでした。しかしこの一言が、ナンシーの心をいたく傷つけてしまいました。先ほど書きましたが、彼女は病弱です。病弱ながら、身体をいたわりつつ、頑張って仕事を続けています。人知れず、ギリギリの努力をしています。しかし、それでも身体が病魔に勝てない時がある。不本意ながら、病欠を取らざるを得ないことがある。病欠したら、たくさんの人に迷惑がかかることは十分承知している。だから、ギリギリの努力を続けているんだ。そういう人の気も知らずに、なんて無神経なメールなんだ・・・彼女は、そう解釈したようです。

 私は、それを数日後になって初めて知りました。例のメールの日、すっかり落ち込んだナンシーはチームリーダー代行に無念の心のうちを打ち明けたそうです。「マナブが、こんなメールを書く人だとは思わなかった・・・」みたいなことを言ったそうです。その数日後、私はリーダー代行を通じて、あのメールが彼女の心を傷つけたことを初めて知りました。

 このニュースは、私にも大きなショックを与えました。その後一時間ほど、とってもブルーな気持ちに沈みこんでしまいました。情けないやら、腹立たしいやら、いろんなネガティブな感情が次々と襲ってきて、しかもその矛先をどこに向けたらいいのか分からず、気持ちの収拾がつかない状態でした。こんな時はとにかく、「励まし」が欲しい。励ましこそが、私の心を癒し、平常心に戻してくれる。私は、自分のホームページ掲示板やメールボックスを見て、激励のメッセージが来てないか、半ば祈るように探しました。でもこんな時に限って、来てない!

 その晩、家に帰ると、妻に例のメールをプリントアウトして渡し、この文面が誰の心を傷つけたか当ててもらう、という実験をしてみました。そしたら彼女は、「傷ついたのはナンシーでしょ!」と、一発でご名答。その時点で私は、自分の側に非があったことを痛感しました。でも、なぜか釈然としない。100%自分が悪かったとは思えない。少なくとも、誰かを傷つける意図は全くなかった。それなのに、なぜこんなことになるんだ?何がどう間違ってしまったんだ??

 次の日、私はナンシーに謝りに行きました。「メールにあんなこと書いて、ごめん。もしあれで気分を害したのだとしたら、申し訳なかった。でも、悪意はなかったんだ」・・・英語で話すと近くの人に聞き取られてしまって恥ずかしいので、北京語で話しました(彼女は北京語ができます)。彼女は、私の意図をどうやら理解してくれたようで、とりあえず仲直りはできたようです。私の気分は、ちょっとだけラクになりました。


 この事件(?)から、私もいろんなことを学びました。その一つは、私の心のなかにある、病気がちな人々に対する差別や偏見・・・とまではいかなくても、彼らに対する根本的な無理解が、今回の一件を引き起こした 主な原因ではないか、というポイントです。

 私の人生観は、基本的に頑丈な肉体の上に構築されています。とにかく、私は昔から身体が丈夫で、滅多に病気しませんし、風邪も年に1〜2回はひくけど、おろしニンニクをたっぷり食べて寝れば翌日にはウソみたいに完治してしまいます。腹痛も30数年の人生で数回しか経験したこ とがなく、貧血も肩こりの経験もない。そもそも薬自体、滅多に服用したことがない。

 身体と脳は一体のもの・・・私の思考や感覚は、全て我が頑丈な肉体が基準になっています。欲望の赴くまま行動して、 多少痛い目にあっても、丈夫な肉体がカバーしてくれると信じています。美味しそうなものは、手当たり次第食べちゃ う(←どうせ腹なんか壊さない)、危ない所へもどんどん出かけちゃ(注 3)(←腕っぷしには自信あるし、少しくらいケガしたってすぐ治る)、会社が嫌なら、今すぐ辞めちゃう(←一時的に収入が途絶えても、頑丈な肉体さえあれば、世の中渡っていける)・・・おおよそ私の行動・思考パターンには、加減とか慎重という観念が ありません。基本的にイケイケな性格です。

(注3)でも大学2年の時、スケベ心を起こして韓国の怪しいバーに入り、そこでゴツいお兄さん4人に囲まれて、3万円ほどムシリ取られた時は、さすがに恐かったです。くれぐれも真似しないように。

 でも世の中には、私みたいな肉体派イケイケの人間が想像すらできないほど、 厳しい肉体的制約条件のなかで生きている人々もいます。彼らはとにかく、ちょっとでも無理したら、身体の方が参ってしまう。だから普段から身体をいたわりつつ暮らし、何をするにも慎重、念には念を重ね、 安全が確認できて初めて行動します。夜更かしは極力しない、危なそうな所には絶対近づかない・・・

 彼ら、病弱・慎重派の行動・思考パターンは、私みたいな肉体派イケイケの人間の対極にあり、それだけに理解 し難いものです。でも、世の中にはいろんなタイプの人がいる。特に病弱・慎重派の面々と一緒にチームを組んで仕事する場合は、この違いを分かってあげなくてはなりません。それはもちろん、頭の中では分かっています。但し、なかなか身体で理解できない。自分自身が滅多に病気しないし、肉体的な制約を感じたことなんてほとんどないから、彼らの気持ちや価値観になかなか馴染めないのです。

 振り返れば、私は以前から、病弱な人たちに対してある意味冷淡だったと思います。日本のITコンサル企業に勤めていた頃、自分は毎日出社して 残業までしているのに休みが思うように取れずヒイヒイ言ってた時、職場の何人かは病欠で何日も休んでるのがどうしても納得いかなかった。そこで上司に、「私は病気しないで頑張って働いて、休暇も以前から計画しているのにそれがとれない。でもあの人たちは病気だからといって、当日の連絡だけで休みが取れる、これってずるいじゃないか!」と言ったことがあります。でもよく考えれば、病欠を取った人 は物見遊山してるわけじゃないんですよね。彼らは病魔と、或いは思い通りにならない自分の肉体と闘っているんですよね、多分・・・

 何はとまれ、普段からのそういう態度が、今回のメールにも無意識のうちに表現されてしまったのでしょう。だから、彼らの気持ちや価値観をもっと理解してあげなくちゃと思 います。いやこれはもっと深刻な問題です。権利意識の強いオーストラリアの社会では、今回のメールみたいなものが、「差別」あるいは「ハラスメント」として、十分裁判沙汰になりうる。そこまでいかなくても、会社の訓戒処分(Disciplinary Action)の対象くらいには平気でなってしまうからです。その際、書いた側に悪気があったかどうかは全く考慮されません。読んだ側がメッセージを「差別」あるいは「ハラスメント」と感じた、もうそれだけで十分「クロ」なのです。現にセクシャルハラスメントなどで、これまで何人の管理職のクビが飛んできたことか・・・気をつけなくちゃ。

 もう一点は、被害者と加害者の関係をどう考えるか、というポイントです。 今回の一件では、お互いの価値観の違いが、ひょんなきっかけで「不幸な出会い」を生んでしまった。その結果、表面的な事実だけを見れば、ナンシーが被害者になり、私が加害者になってしまった。この類のことは、いつでも、どこでも、起こりうることです。

 私は加害者の側になってみて、それが心理的にどれほど辛いものか、嫌というほど痛感しました。もちろん、被害者になるのは辛い。でも加害者になってしまうと、その心理的ダメージは被害者になるよりもある意味大きいのではないでしょうか?例えば、自分が被害者ならば周囲の同情を得ることも、加害者という他人を責め立てることも比較的容易にできますが、加害者の場合それができない。強烈な自責の念に苛まれながら、同時に周囲から悪者扱いされてしまうのが、加害者の常です。事件の説明責任とともに、一旦壊れた関係を修復するための並大抵ではない努力が、加害者の双肩にずっしりのしかかります。でも被害者の場合、そこまでは要求されません。

 もう少し掘り下げて考えてみます。事件が起こった際、まず「加害者」対「被害者」という構図がクローズアップされますよね。でもそれは氷山の一角に過ぎないのではないか?物事の本質(氷山の全体像)は、人間社会のいつでもどこでも起こりうる「不幸な出会い」によって、一方が被害者、一方が加害者という役割を担わされることなんじゃないのか?その意味では、被害者、加害者とも、いずれも「不幸な出会い」の被害者と言えるんじゃないのか?

 なぜ人間社会で「不幸な出会い」が起こってしまうのか?その答えは、千差万別でしょう。それは、お互いの価値観や感性の違いであったり、権力関係のせめぎあいであったり、社会システムのゆがみであったりと、様々です。或いは、「魔がさした」という言葉に表現されるように、人間が生物として本来備えている恐怖心や自己保身本能が、ひょんなきっかけで暴力的な行動・言動に結びついてしまうケースも多々あるのでしょう。

 そこで、私はふと考えてしまいます。何か事件が起こったとき、私たちは常に「加害者」対「被害者」という構図ばかりを強調して、加害者の側ばかり責め立ててしまうけど、それは果たして正しいことなのか?加害者を責め立てる人は、その時ばかり「いい子ちゃん」になってしまうけど、その本人が、いつなんどき加害者の側に立つか分からないではないか?そもそも、加害者になりえない人間なんてこの世に存在するのか?

 これは特に、少年犯罪などのニュースを見るたびに、「少年法を改正して、罰則を強化すべきだ!」みたいな金切り声をあげる大人たちに対して申し上げたいのです。いつも感じるのですが、そうやって叫んでる時の人間って、実に醜い顔してますぜ。少なくとも、美しい顔はしてない・・・この観察は多分、間違ってないと思うな。

 そういう人の頭の中って、たぶん、「加害者」対「被害者」という、表面的な構図しか見えてないんだと思う。その根底にあるものが何なのか、考えてみようともしない。事件を起こしてしまった少年本人についてもっと深く理解しようとはこれっぽっちも思わず、自分の周りにいる子供たちを教え導こう、良き手本となろうという意志もない。ただただ不安を強く感じていて、その不安を少しでも紛らすために、国家権力による「刑事罰の強化」にすがりつこうとする・・・そういう人が多くなると、たぶん世の中警察国家みたいになって、息苦しくなりますぜ。下手したらファシズムみたいになっちゃいますぜ。そういう社会を、彼らは望んでいるんでしょうか?

 私はなにも、少年犯罪の罰則を強化するなと言ってるわけではありません。でも、不安や恐怖心といったネガティブな感情を根拠に、法律改正みたいな大事な社会問題を一丁前な顔して論じるのはやめようぜ、ってことを言いたいだけです。

 事件が起こった時、「被害者の人権」を盾に加害者の側だけを弱いものイジメ的に攻撃するのではなく、もっと大らかな慈愛の心で、被害者、加害者双方を許す、赦す(この字の方がしっくりきますね)、ということはできないものでしょうか?もちろん、加害者の犯した罪に対しては、それ相応の罰をもって償わせる。でも、それが済んだら赦したっていいじゃないですか。加害者の側に立った人間は、被害者以上に辛いかもしれないのです。自責の念に苛まれながら、世間の支持も得られず、四面楚歌のなかで生きていかなきゃならないのかもしれないのです。彼らも我々と同じ人間です。だから、罪相応の償いだけはきっちりとさせて、あとは赦して、仲間として暖かく迎えてやりましょうよ。


 私は、この一件のショックから、ようやく立ち直りつつあります。ナンシーとの感情問題もおおかた修復され、普段通りの姿に戻ってきたと思います。この一件で痛感したのは、「不幸な出会い」が起こった時、加害者、被害者の枠を超えて、双方にもっと優しい気持ちを持てるような自分でありたい。たとえ自分が被害者になり、深く傷ついたとしても、加害者に対して、「あの人も大変なんだよな」と思いやり、大らかな心で彼らを赦せるような人間でありたい、ということです。

 私はあと1週間、8月8日をもって、IBMオーストラリア勤続3年になります。同じ会社で3年間勤めあげたのは、私の人生で初めてのことです。その日は、妻とイタリアンレストランにでも行ってお祝いしようと思っています。

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