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今年の日本プロ野球は、阪神タイガースが物凄い快進撃ですね。6月29日時点で、なんと50勝21敗1分。二位中日に早くも12.5ゲーム差をつけ、早くもぶっちぎり独走体制。後は、いつマジックが点灯するか、時間の問題でしょう。この調子でいけば、道頓堀にカーネルサンダースおじさんが投げ込まれた'85年の「奇跡」以来、18年ぶりのリーグ優勝・日本一が、現実のものとなるでしょう。
野球といえば、言うまでもなく日本の国民的スポーツ。今でこそJリーグがあり、国内外のいろんなスポーツが気軽に観戦できる時代ですが、私の少年時代は、プロスポーツといえばもう野球、野球の一点張り。小学校の授業で、「大きくなったら何になりたい?」というアンケートをよくやりましたが、男の子で一番多かった答えはいつも
「プロ野球選手」。王選手のようなホームラン打者になりたい、新浦のような剛速球投手になりたい・・・それが実現するかどうかは別として、当時日本の少年たちは、プロ野球選手の雄姿を見ながら、小さな胸を躍らせていたのです。
私自身も、そんな文化のなかで育ちました。幸か不幸か運動神経がなく、野球少年にはなれませんでしたが、「プロ野球選手名鑑」をいつも片手に、新聞はいつもスポーツ欄から先に読み、勝敗表や好きな選手の打率、ホームラン数をチェックするのが日課でした。
好きなチームは、特にありませんでした。我が家は巨人ファンが多いのですが、私は巨人がどうしても好きになれず、かといって他のどの球団のファンというわけでもありませんでした。ただ、好きな選手というのはいて、その選手が属する球団を応援していました。だから、トレードがあるたびに応援するチームが変わる、という感じでした。
野球はチームでなく個人で見るもの・・・少年時代の私は、ゲームやペナントレースよりも、各選手の後姿から垣間見える「男の生き方」というものを、興味深く観察していたのかもしれません。実際、プロ野球選手の生きざまは、私の人生に少なからぬ影響を与えてくれました。就職、転職、海外移住・・・私が人生の大きな転機に直面した時、必ずといっていいほど、野球人から元気と勇気を分け与えてもらいました。30代になる今日でも、そうです。
野球文化に育まれた日本の男というものは、多かれ少なかれ、皆そうなのかもしれません。例えば、リストラされた中年サラリーマンが、落合(博満)選手が40過ぎて巨人を蹴って日本ハムに移籍したニュースを聞いて、「俺も頑張らなきゃ!」と燃えたり、野茂(英雄)選手が単身アメリカに乗り込んで活躍する姿を見て、「俺もチャレンジしてみよう!」と、思い切って会社を辞めて海外留学したり・・・そんな話、よく聞きますよね。
というわけで今回は、私の人生に大きな影響を与えた野球人たちを、時代を追って振り返ってみようと思います。
1.ONの残照
私が初めてプロ野球に目覚めた年は、1977年(昭和52年)でした。この年の9月3日、王貞治選手がハンク・アーロン選手の世界記録を抜く、通算756号ホームランを打ち、国民栄誉賞の受賞第1号となりました。当時、長嶋(茂雄)選手はすでに引退し、その3年後('80)、王選手も現役を引退しますから、この時代はON(王・長嶋)時代の最末期と言ってよいでしょう。
言うまでもなく、ONの二人が球界に遺した足跡は偉大です。日本プロ野球は、長嶋茂雄を超えるスーパースターと、王貞治を超えるホームラン打者を、もう二度と輩出できないかもしれない、と言われてるくらいなのですから・・・
私がもう少し早く生まれていて、ON時代の全盛期を見ることができたならば、この二つの巨大な才能の輝き、絢爛豪華なプレーを、全身全霊から楽しめたのかもしれません。
しかし、彼らが去りつつあるこの時代、日本プロ野球はすでに矮小化した、「ケチくさい」、「ジジむさい」ものになっていました。少なくとも、少年の私はそう感じていました。選手一人一人がまるで組織の歯車のようで、豪快なホームランを狙うより「チームプレー」の名のもとにバントや犠牲フライが評価され、挙句の果てに「管理野球」という言葉まで生まれ、選手の私生活まで球団が管理しようとする・・・
組織優先、厳しい上下関係、過剰な自己犠牲に象徴される当時の(今もそうかもしれない・・・)ニッポン野球文化。ONほどの大天才といえども、そういう文化に育まれた「時代の子」でした。例えば王選手なんか、あれだけすごい成績を残し、
彼の全盛期に巨人はV9(9年連続日本一)の偉業を達成できたのだから、本来なら目の玉の飛び出るような高額年俸を要求してもおかしくないのに、彼の年俸は
実につつましいものでした。長嶋選手も、多分そうだったでしょう。周りとの兼ね合いとか、チームメイトや世間の目とか、そういうものを考慮したのでしょうか?
或いは、球団(経営)側の力があまりにも強すぎて、大天才選手といえども、何も物申せなかったのでしょうか?
そういうところに、私は子供心ながら違和感を感じていました。
個人が組織のなかに埋没してしまい、いまいち活き活きできない、そんな窮屈さがTV画面の向こうから伝わってきました。
2.二つの巨星〜江川と落合
江川卓と落合博満、1980年前後に現れたこの二つの強烈な個性が、日本プロ野球に新たな時代をもたらしたと私は考えます。
もちろん、優れた成績を残した選手、素晴らしいプレーを見せてくれた選手は、彼らのほかにもたくさんいます。ですがこの時代、組織に埋没・従属せず、独立した個人として堂々と生きて見せたという意味で
、この二人の右に出る者はいないと思います。
江川卓・・・高校時代、豪快な投球で「怪物」の異名を全国に轟かせた男。完全試合2試合、ノーヒットノーラン10回という、超人的な成績を残した彼を、もちろん、プロ球界は黙って見逃すわけはありません。高校卒業後、阪急がドラフト1位指名。江川はそれを拒否し、法政大学へ進学。大学野球でも怪物ぶりは変わらず、
大学史上2位の47勝を挙げ、4期連続優勝を達成。この時点で、江川の頭のなかには巨人入団しかありませんでした。しかし皮肉なことに、クラウン
ライターが指名権を獲得し、江川を1位指名、江川はそれを敢然と拒否して、アメリカへ野球留学・・・
この時点でクラウンはすでに西武に身売りしていたが、江川は西武入りの動きを少しも見せず、ついに交渉期限とされるドラフト会議(10月22日)の前々日(10月20日)が終わり、西武は交渉権を失う。そして、その翌日の10月21日。後に「空白の1日」と呼ばれるこの日は、ドラフト会議前々日ぎりぎりまで交渉を続けていた球団が次のドラフト会議場に移動するための移動日だったが、巨人は、その日を利用して江川と入団契約を結ぶ。
セリーグ事務局は、即座に江川と巨人の契約を無効との判断を下したため、怒った巨人は、その翌日のドラフト会議をボイコット。阪神・南海・ロッテ・近鉄の4球団が江川を1位指名。抽選の結果、阪神タイガースが交渉権を得た。しかし、金子コミッショナー(プロ野球機構を統括する最高権力者)の裁定によって、阪神は江川と契約した後、巨人へトレードに出すように要請。1月31日に阪神は、江川と契約を結び、翌2月1日に小林繁との交換トレードで巨人に入団となる。江川自身は開幕から2ヶ月間の出場停止となり、6月から登板する・・・
これが、社会問題にまでなった「江川騒動」の一連の顛末です。「空白の一日」を利用した強引ともいえる巨人の江川獲得や、金子コミッショナーの裁定が妥当であったかどうかについては、当然、いろんな意見があるでしょう。特にアンチ巨人の面々にとっては、苦々しい思い出でしかないでしょう。ただ、マスコミを初め、当時の人々は、まだ22歳の江川本人に非難の集中砲火を浴びせ、ゴリ押しを意味する「江川る」という言葉が流行語になった・・・これには、当時幼い私も納得がいきませんでした。
野球選手なら誰だって、希望の球団というものはあるでしょう。江川は高校時代から巨人(或いはセの在京球団)でプレーしたいと言い続け、その後、いろんな紆余曲折があったけど、初志貫徹して、ついに巨人入団を果たした。その行動のどこが良くないの?人並み外れた才能がゆえに、数年にわたって各球団を巻き込み、世間を騒がせたけど、非難されるべきは江川の才能に踊らされて醜い争いに終始した周りの関係者であっても、江川本人ではないでしょう。どうして、世間は江川を非難するの?自分の希望しない球団にドラフト1位指名されたら、大人しくその球団でプレーしなさいと言いたいの?
私は昔から、世間の目を配慮して自分のやりたいことを我慢したり、自主規制したりすることが大嫌いな性格です。また、自分が自己実現できないからといって、人さまの自己実現の足を引っ張ろうとする人間が大嫌いで、それより、少々汚いとされる手段を使っても、常に自分に正直に、意志を押し通そうとする人間に魅力を覚える性質です。ですから私は、巨人がいかに嫌いでも、心情的には完全に江川応援でした。
その後、9年間にわたって巨人のエースとして第一線に立ち、引退後は野球解説者、タレントとして活躍する江川を見て、私は彼の生き方にますます魅力と共感を覚えていきます。彼は頭がいい。単なる野球バカではないし、組織に埋没するだけの人間でもない。彼には、強烈で確固とした「個」がある。それがあったからこそ、わずか22歳の若僧の身で、海千山千の球界関係者の醜い争いに巻き込まれても、世間やマスコミの(つまらん)非難の集中砲火を浴びても臆せず、飄々として巨人のマウンドに立ち続けることができたのだと・・・こういう男の生き方って、かっこいいと思います。
江川以上に、私の人生に大きな影響を与えた野球人が、落合博満です。三冠王3回、首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回・・・セパ両リーグで数々の打撃タイトルを総ナメにし、長年にわたって「日本一の打者」の名を欲しいままにした落合は、26歳という「高齢」でプロ入りし、しかも入団したのがパリーグ(ロッテ)だったため、入団3年目、首位打者を獲る以前は、全く注目されない存在でした。しかし私は、彼を入団当初から注目していました。なぜなら、野球選手名鑑に載っていた、彼の談話が印象的だったからです。
打率2割8分、ホームラン20本は打つ!やりますよ・・・
何という自信!入団1年目で、ここまでの言葉を吐ける落合って、いったいどんな男なんだろう?当時10歳の私は興味津々、スポーツ誌では落合の打撃成績を逐一チェックし、たま〜にしかTV放送されないロッテ戦は必ず見て、落合がプレーするのを心待ちにしていました。
当時、代打要員としてたまにしかゲームに出なかった落合の打撃フォームは、あまりにも風変わりでした。バットを軽く立ててゆったりと待ち、一見アッパースイングに見える打ち方で外角の球をポコーンとライト方向に打ち上げる。世にこんな打法があるのかと驚くと同時に、ほとんどが平凡なライトフライに終わる彼の打席を見て、「こんなんで2割8分、20本なんか打てるわきゃない」と思いつつ、でも内心では密かに彼を応援していました。
2年後、彼が「化け」ました。打つわ打つわ、4年目でいきなり三冠王に輝き、その後も毎年驚異的な成績をマークし、8年目、9年目には2年連続で三冠王。その翌年('87)、中日の4選手と落合一人をトレードするという化け物ぶり。その年に、彼は日本人初の1億円プレーヤーとなりました。ついに、王・長嶋でさえ到達できなかった大台に乗せたのです。その後、彼はセリーグ(中日、巨人)でも活躍を続け、チーム優勝に大いに貢献し、彼の年俸は2億、3億・・・と積みあがっていきました。
彼のこの偉業は、彼が常に自分のスタイルを貫き通したことから生まれたのでしょう。入団当時、彼のあまりにも風変わりなスイングは、監督・コーチ・評論家の酷評を浴び、本気で「矯正」しようとしたコーチもいたそうです。でも落合は、自分の編み出したスタイルを頑として変えませんでした。「自分の思い通りにやって打てなかったらクビで結構ですから、放っておいてください」・・・そして、誰も文句のつけようのない結果を残すことで、周りの見方を変えていきました。無責任に騒ぎ立てる外野の声を、豪打で黙らせていきました。そんな彼をみて、私は思いました。「彼こそ、本物のプロフェッショナルだ」・・・
特に、1996年末、巨人から日本ハムへ移籍した時の落合は、最高にかっこよかったです。すでに43歳、野球選手としては、最盛期を過ぎたどころか、現役でプレーするのがまず不可能とされる年齢になった落合は言いました。「自分を必要とする球団であれば、どこへでも行く」、「自分を一番高く評価してくれる球団に行く」・・・その結果、日本ハムが3億円という年俸を提示して、晴れて移籍が決定したのです。
折りしも、私は環境コンサルの会社を辞め、全く未経験のIT業界への転職を決意していました。当時28歳、面接では「君、今まで何やってたの?」、「うちの会社で28歳といえば、5〜6年目のバリバリだよ。そんな連中と一緒に仕事できると思ってんの?」みたいな意地悪なことを言われてブルーになっていた折、43歳落合の日本ハム移籍は大きな励みになりました。ちなみに当時の私の希望年収は500万円(今は、そんなにもらってないけど・・・)。「落合は3億円で、俺は500万円だけど、頑張るぞ!」と言って、次の面接に備えたものです。
江川と落合・・・この二人が、自分の美学や職業意識を貫き通したおかげで(無論それだけではないけれど)、日本プロ野球の歴史は前進しました。1993年に始まった逆指名制度(選手が入団したい球団を選べる制度)は、その15年も前の江川騒動が一つのきっかけになっていますし、また同じ年に発足したFA制度(フリーエージェント、選手が希望球団に自らの意思で移籍できる権利)は、落合がその行使第一号となりました。この二つの制度が日本球界にとって良い選択であったかどうかは意見が分かれるでしょうが、それまで、「個人(選手)は組織(球団)の持ち物」みたいな意識が当たり前だった日本野球界が、個人重視の方向に少し動いたことは、評価して良いと思います。
3.大リーグ挑戦時代
江川、落合が開きかけた新しい時代の扉、それを見事に開く選手たちが現れました。自力で大リーグに挑戦し、夢を見事に勝ち取った選手たちです。その先鞭をつけたのは、もちろん野茂英雄投手です。
野茂は、私と同世代ということもあり、親近感がわきます。彼はトルネード投法と呼ばれる独特のフォームを武器としており、近鉄入団時、「投球フォームの改造は一切しない」という条件を球団側に認めさせる(日本史上初)など、ルーキー時代から非凡なところを見せています。彼は近鉄で5年間プレーし、エースとして文句のつけようのない成績を残したあと、1994年近鉄を退団し、大リーグ挑戦を決意しました。彼は日本球界の一流選手として初めて大リーグ入りした選手であり、あらゆる意味でパイオニアとして一から切り拓いていくしかありませんでした。ですが、彼はそれを見事にやりとげました。その後の活躍ぶりについては、ここで説明するまでもありません。
野茂の成功に続けとばかり、イチロー、新庄、佐々木、伊良部、吉井、松井といった、日本球界の一流選手が続々と大リーグ入りし、見事な活躍を見せています。今ではスポーツ特番でもまず大リーグのニュースをやって、その後ようやく日本プロ野球のニュースをやるという「逆転現象」が見られます。数年前には、考えられなかったことです。
これを、「日本プロ野球の空洞化」だとして嘆く人はたくさんいますし、私にもそういう気持ちは多少あります。でも、大リーグという舞台で活躍したいという個人の意志を、何人たりとも止めることはできない・・・日本でもすでに、そういう時代になっていると私は思うのです。日本で生まれたのだから日本でずっと暮らすべきだとか、日本人なのだから日本球界で頑張りなさい、というのは、今やどんなナショナリストでも持ち得ない感覚でしょう。今後、日本球界が生き残りをはかりたければ、アメリカ球界よりもっと魅力的になるように、或いは、地域に愛されるチームという原点に戻れるように、自分自身をドラスティックに改革していくしかないと私は思います。
話がちょっと脱線しましたが、野茂をはじめ日本人選手のメジャーでの活躍は、折りしも海外移住を決意した私にとって、大きな励みになったことは言うまでもありません。国や職業は違えど、海外という舞台で、外国人に自分の実力を認めさせたい、それだけの技量や実績をつけたいと、常に思ってきました。いま振り返ると、彼らに良き刺激を与えてもらって本当に良かったと思います。もちろん、現時点での私の成功なんて、彼らの足元にも及びませんが、でもここ数年間、彼らを心のどこかで意識して努力してきたからこそ、今日の私があると思うのです。
最後になりますが、野球選手には是非とも、自分のプレースタイルや生き方へのこだわりを持って、我々ファンを楽しませてもらいたいものです。あと、今年のセリーグは、このまま阪神が突っ走って、優勝して、日本一になってもらいたい。私は別に阪神ファンじゃないけれど、阪神がぶっちぎり優勝したら、日本の閉塞ムードが一気に吹き飛んで、新しい時代が開け
るかもしれない、そんな気が何となくするのです。
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