|
この頃、景気の良い話をあまり聞きません。我が家では、私がIT業界、妻が航空業界に勤めているのですが、どちらも、最近あんまり儲かってないようです。もっとも、IT業界は不況に突入してはや3年目。そこで働く我々もすっかり慣れっこになってしまって、「今度景気良くなったら海の見えるマンション買うんだ!」みたいな夢物語をつぶやきながら、あんまりパッとしない日々を送っています。
でも、IT業界で働く我々の目からみても、航空業界の不況というのは、つくづく大変だなあと思います。旅行業界、ホテル業界、航空業界・・・これらは「観光」という、基本的には不要不急の出費の上に成立しているだけに、SARS、イラク戦争、無差別テロ等といった国際情勢の影響をモロに受けてしまうのでしょう。
もっとも、我々のIT業界も、食料品や自動車、医薬品みたいな産業に比べれば、基本的には不要不急の出費の上に成り立っているわけですが、それでも、一度ITインフラやアプリケーションをつくってしまえば、開発はできなくともサポート、運用、保守などである程度は儲かります。ところが、観光に依存する産業というのは、その国・地域で良からぬ事件が起こってイメージダウンが起こるとか、或いは世界のどこかで戦争や奇病が発生して、「いま旅行に行くのはヤバそうだ」みたいな雰囲気が蔓延したら、もうそれだけで、何十パーセントという単位でお客さんが減ってしまい、それが会社の株価やお給料に跳ね返ってしまうのですから、本当に大変だと思います。
特に今世紀に入ってから、米国中枢同時多発テロを皮切りに、アフガン戦争、バリ島のテロ、イラク戦争、SARSの流行と、世界中でいろんな悲劇が起こっているだけに、観光関連業界の皆さんにとってはつらい日々が続いていることでしょう。今年も、GW期間中の日本からの出国者数が2割以上減ったとか、SARS騒動以来、成田〜シドニー線の旅客数がずっと2桁台を低迷して毎日ガラ空きとか、そんなシケた話ばっかり聞こえてきます。最近では、妻の勤め先からの郵便物が頻繁に舞い込むようになり、開けてみると早期退職や長期休暇の募集ばっかり、という笑えない状況です。
でも、私はいつも思うのです。毎回毎回、ちと騒ぎすぎじゃないかと。或いは、メディアに躍らされすぎじゃないかと。例えば、SARSの影響で、日本から北京、香港、台北などへの旅客数が減るのは分かる。でも、なぜ成田〜シドニー間の旅客数まで激減しなくちゃならないのか?我らがシドニーは、日本の観光客にとって、それほど魅力のない都市なのでしょうか(そう言われたら、元も子もありませんが・・・)?これは明らかに、「いま海外に行くのは危なそう」という、日本人旅行者側の一方的な思い込みが影響しているのでしょう。
例えば、いま日本では、「出国時、空港でSARSに感染するおそれがある」と言われているそうですね。先日、シドニーに遊びにきた日本の友人も、「いまの時期、出国するのは本当に大変だった(家族や周囲の説得などで・・・)」と言ってました。
でも、ちょっと待ってください。海外旅行に行く人が、成田や関空に滞在する時間って、せいぜい2〜3時間ですよね。その間、チェックインの手続やって、出国審査やって、あとはせいぜいレストランに行ってお食事して、免税品買って・・・普通それ位しかしませんよね。それだけで感染するようなら、空港職員なんかとっくの昔に全滅してるでしょう。或いはフライトアテンダントとして、毎回のように香港へ飛んでるうちの奥さんなんか、とっくに感染してるでしょう。
保健当局が、SARS感染者の入国を水際(空港)で阻止しようと神経をピリピリさせているのなら話は分かる。でも一般旅行者が、わずか数時間の空港滞在の間に、いるのかいないのか分からないSARS感染者に病気を移される確率なんて、考えてみれば限りなくゼロに近いわけでしょう。でもそれが、海外旅行への大きな心理的ブレーキとなっている・・・この辺が私にはいまいち理解できないのです。
もっとも、海外旅行を延期した旅行者を責めることが、本文の趣旨ではありません。所詮、観光旅行なんてものは、そんなものでしょう。イメージや思い込みに左右される、生ものみたいな存在なのでしょう。家族旅行にせよ友人との旅行にせよ、誰か一人が「危なそうだから行きたくない」と言い出したら、その時点で成立しなくなるものなのですから。観光業界の関係者も、自分たちの生活の糧が、そうした不確かな基盤の上に立っていることなど、おそらく百も承知でしょう。
むしろ、私がここで問題にしたいのは、何か行動を起こす上での健全なリスク意識とは何か・・・というテーマです。テロ、戦争やSARS騒動に伴う(日本のみならず)世界的な旅行者数の激減という現象は、このテーマを考えるにあたって大きな示唆を与えてくれます。
1.適切な情報収集と事実認識
私たちが何かする時、必ず「リスク」というものが伴います。リスクとは、一言でいえば「何かを失う危険」のことです。失いうるものは、いろいろあります。金銭や物品かもしれないし、自由な時間かもしれない、極端な場合は自分や他人の生命かもしれません。
私たちは、どんなに日常的なことでも、それに伴うリスクを無意識のうちに計算して、その上で行動を起こします。例えばの話、千葉県の自宅から電車に乗って渋谷に出て映画を見に行くとします。その際、電車のなかでスリにやられるかもしれない、渋谷の繁華街でチンピラ風のお兄ちゃんにからまれて面倒なことになるかもしれない、帰り終電に間に合わずにタクシーで散財してしまうかもしれない・・・等々が、リスクとして想定されます。そういった「リスク」と、渋谷で都会の雰囲気を味わいたい、映画を観て感動したい等といった「便益」とを天秤にかけて、前者より後者の方が大きければ「行く」、逆ならば「行かない」という判断に至るわけです。
でも、近所に買い物に行くとか、隣町の温泉ランドに行くとか、そういった日常的なことであれば、誰でも、かなり正確にリスクを計算することができます。ところが、初めて海外旅行に行くとか、高校出たての娘が親元を離れて外国で語学留学するみたいなことになると、その確度はかなり怪しくなります。それは、リスク計算に必要な「良質な情報」の量が圧倒的に足りないからです。
そこで、「情報収集」とそれを通じた「事実認識」というステップが必要となってきます。現代はマスメディア、ミニコミ、インターネット等各種メディアから発信される大量の情報に、誰もが簡単にアクセスできる時代ですが、信頼性の高い情報を得て、それを理解して、整理分類して、事実を認識する、という能力に関しては、個人差が非常に大きいようです。
それは、分かってます。でも、私がどうしても理解できないのが、マスメディアから流されるショッキングな映像を見て、あるいはセンセーショナルな記事を読んで、「あの国は危ない」とか、「いま外国に行くのは危ない」と判断する人が、今なお多いことです。それも、いい歳をした大人が。
マスメディアから流れるニュースの多くは、「日常」ではなく「非日常」の現象を扱うものです。例えば、「今日、千葉県の柏市では何事も起こらず、平和な一日でした」みたいなことはニュースになりませんが、普段平穏な柏市でたまたま殺人事件が起こったりすると、それがニュースとなって全国のお茶の間に知れ渡ります。でも、だからといって「柏市は人殺しが頻発する物騒な所だ」と判断するのは誤りです。柏市に初めて来た人が、何を体験するかというと、「殺人事件」よりも「普段通りの平和な柏市」を体験する確率の方が、はるかに高いわけです。
それが日本国内でなく、海外のことになると、「日常的事象」と「非日常的事象」の区別がますますつきにくくなってきます。考えてみれば、多くの人は海外の日常生活など知らないわけですから無理もありませんが、それだからこそ、信頼性の高い情報を得て、「日常的事象」と「非日常的事象」を峻別して、事実を把握する、という作業の重要性が増してくるわけです。逆にそれをやらないと、リスク計算の根拠が無茶苦茶になってしまうのです。
じゃ、どういった情報を得ればいいのか。例えば、我が娘がシドニーに留学するとします。でも、シドニーがどんな所なのか、かいもく見当がつかない・・・という人なら、例えばインターネットを通じて、シドニー在住の日本人が非営利ベースでやってるホームページをいくつか見てみるのが一番良いと思います。なぜなら、そこには娘さんが体験するであろうシドニーの「日常」が、現地在住者の視点から描かれているからです。言葉の不自由からはじまって、ビザの苦労、運転免許取得、家選び、クルマ選び、学校選び、買い物、シェアメイトとの人間関係・・・赤裸々な現実が、率直に描き出されているはずです。しかも非営利ベースだから、過剰な宣伝文句もリップサービスも一切なし。
たとえば、Googleでキーワード「シドニー」、「移住」などで検索すれば、たぶん私のサイトにヒットするはずです。当サイトのコンテンツは、もちろん独断と偏見に満ちてますし、また事実誤認も多少あるでしょう。でもウソは一つも書いていません。自由な個人の立場でつくってるサイトですから、「これ書いたらマズい」などという自主規制も一切ありません。「ホントのこと書いて何が悪い?」というスタンスで、自分が正しいと信じることだけを遠慮なく書きまくっています。もちろん、私のものの見方という「フィルター」がかかってはいますが、「シドニーの日常生活」を知る一次資料としては、信頼のおける良質なものだと自負しています。
シドニーには、移住者や留学生による、自由な個人の立場でやってるサイトがたくさんあります。私のサイトだけでは見方が偏りますから、リンク集などを参考にして、いくつかのサイトを見比べてみましょう。そうすれば、シドニー暮らしについて、ある程度立体的なイメージがつかめるでしょう。ニュースを見るよりもずっと、シドニーの日常や、この都市に暮らす人々について、広く深く知ることができるでしょう。
私のメールボックスには、「シドニーに留学したいのだけれど、親の賛成が得られなくて、悩んでいます」というお便りがよく届きます。そんな時、私がいつも疑問に思うのは、娘さんの留学に反対する親御さんが、シドニー暮らしや留学について、十分理解した上で反対しているのか?ということです。海外で暮らしたこともないのに、ニュースを見た、雑誌を読んだ、そんな程度の浅薄な理解だけで、「危ないからやめろ!」などと言ってる親御さんがたぶん多いのではないでしょうか。少なくとも、「良質な情報」を入手して、理解する、事実を把握するといった作業、例えば私の「シドニー日記」を読んでメールで質問する・・・この程度のことは、是非ともやってもらいたいものです。
2.数奇な運命と向き合う
リスクを考える上で、もう一つ重要なのは、「リスクは、完全にゼロにはできない」という現実をよく理解すべきだということです。もっと分かりやすくいえば、「この世に、絶対安全なんかありえない」、「安全に安全を期して、それでも起こってしまった不幸に関しては、潔く受け容れるしかない」ということです。
「100%絶対に安全でなくてはならない」、「事故は絶対に起こってはならない」・・・これは、心構えとしてはとても大事なことです。でもそれを厳密に考えたら、人間、何も行動できなくなってしまいます。極端な話、隣りの家に行くのだって、その途中でクルマにはねられるかもしれないし、どこへも出ずに部屋にこもっていたって、いつ頭上から飛行機が落ちてくるか分からないし、いつ直下型地震が襲ってくるかも分からない。自分と他人がこの世に生きている限り、リスクゼロ状態はありえない。事故、不幸の可能性は常にあるのです。
「万が一」が起こった時、予防対策を考えて次回に備えることももちろん大事ですが、今回起こってしまったことに関しては、結局、それが運命だったと受け容れるしかないのです。そうした覚悟があった上で、「どこからどこまでのリスクに関しては、情報収集をしっかりやってコストをかけて極力防ぐけれども、それ以上のリスクに関しては、正直言って我々の手に負えない」という明確な線引きをすることが、何事をする上でも大事だと思います。
世の中、「絶対安全」という言葉がよく使われますが、これはある意味、「人間世界で完璧な絶対安全はありえない」という現実から目をそむけているのだと思います。原発でも耐震マンションでも、絶対安全を謳って、人知のあらゆる限りを尽くして事故の可能性をゼロに近づけることは、ある程度可能でしょう。でも、そういうものはとんでもなく高価なものになってしまうでしょうし、また厳密な意味で絶対安全、リスクゼロにはできません。ですからこの世で意味を持つのは、「絶対安全」ではなく、「どの程度の安全をいくらで手に入れるか?」という、相対的な安全(或いはリスク)とコストの関係でしかありえません。
人間のコントロールできないレベルで、人の生き死に、運と不運、という領域を司っているのは、神なのか宇宙なのか天なのか、私にはよく分かりません。とにかく、人智を超えたそういうものが、一人一人の運命を気まぐれに弄んでいるという現実は、いくら科学技術や社会システムが発達しても、克服することはできないでしょう。天の気まぐれのなかで、数奇な(尋常でない)運命に弄ばれる人は、世の中にたくさんいますし、いずれ自分がそうなるかもしれません。
私は学生時代、バックパッカーとして第三世界と呼ばれる国々をたくさん歩きましたが、そうした国では、数奇な運命というものが、かなり日常生活に近いところにありました。日本という先進国で育った私の目には信じられないほど、人々がひょんなきっかけでいとも簡単に死んだり、誘拐されたり、神隠しにあったりするのです。
例えば1989年、フィリピンのマニラ滞在中にクーデターが起こり、私のいるわずか数キロ先で銃撃戦が行われ、政府軍と反乱軍双方にたくさんの死傷者が出ました。また、この国ではフェリーに乗って旅したのですが、私の乗った隣りの航路で数日後フェリーが沈没し、600人からの方が亡くなりました。1992年、中米グアテマラ滞在中、エルサルバドル行きバスに乗り遅れ、地団駄を踏んだところ、翌日の英字新聞でエルサルバドルの市街戦で30数名が死亡、という記事を読んで身震いがした・・・死が、悲痛な別れが、不条理な運命のいたずらが、常に日常生活と隣り合わせにある、こんな世界に、彼らは生きていました。
また、私は1920年代に中国・内蒙古自治区に生まれたモンゴル人女性の手記(原文は北京語)を翻訳したことがあるのですが、彼女の人生は、まさに最初から最後まで数奇な運命に弄ばれたものでした。攻日戦争、国共内戦、朝鮮戦争そして文化大革命という歴史の激動のなかで生き、日本で日本語を覚えたことがきっかけで敵扱いされたり、青年会議でもらした一言がきっかけで5年間牢獄に入れられて想像を絶するような拷問にあったりと、とにかく凄まじい一生でした。日本から狭い海を隔てただけの隣国で、こんな悲痛な生涯を送らざるを得なかった人がたくさんいるという現実を、彼女の手記によって知ることができました。
もちろん、私はそういう国に住みたいとはあまり思いません。現代日本やオーストラリアといった先進国では、普通に生まれてきた人間の大多数が成人して、老いて、天寿に近い寿命をまっとうできる、という状態を実現できています。これは素晴らしいことだと思います。人々が数奇な運命に弄ばれる確率をここまで少なくできた社会、これは、人智の勝利と言えるでしょう。
反面、こういう世界に生きる人々の多くは、安全で快適な環境にスポイルされてしまったというか、自分が数奇な運命に直面することを極度に恐れ、忌み嫌うという性質を、どうやら身に付けてしまったようです。物事は絶対安全でなければならない、保障されていなければならない、先が読めなくてはならない・・・といった思考に支配されがちです。そんな社会でも、いつなんどき、数奇な運命が自分の身に振りかかってくるのか分からないわけですが、それに対する心の準備が全然できてない人が多いのです。
人間、死ぬときは死ぬ。死という運命から、何人たりとも逃れることはできません。あるいは、ひょんな運命のめぐり合わせで、今持っているもの、例えば職業や財産、名誉を一瞬にして失うかもしれません。もちろん、極力そうならないように気をつけて生きてるつもりですが、自分の力の及ばぬ要因でそうなってしまった場合は、仕方がないと、静かに受け容れるしかないと思います。
だからこそ、いま一瞬一瞬を精一杯生きて、いつ死が襲ってきても、素晴らしい一生だったと、心から肯定できるようになりたい。また、苦労して手にした職や財産を一瞬で失うことがあっても、五体満足なんだからいいじゃないか、今日も明日もお日様が昇ってくれるんだからいいじゃないかと、心から満足して新しい現実を受け容れたい、と思っています。たぶん、そうやって生きた方が、何かを失うことを恐れてビクビクしながら生きるよりずっと楽しいし、気持ちいいでしょう。
3.臆病者の時代
最後に、人間にとって「臆病」とは何か、ちょっと考えてみたいと思います。
私は、臆病というのは本来、人間に与えられた資質のなかでも最も良質なものだと思っています。人類は生物としては弱い部類に属し(例.チンパンジーに素手で闘って勝てる人間は少ない)、そのため生来臆病です。臆病であるがゆえ、自らの肉体で自然界と直接対するのではなく、創意工夫を重ね、自らに代わって自然に働きかける「道具」や「機械」というものをつくりだしました。そう考えていくと、文明というものは人間の臆病さが生み出した偉大な産物なのでしょう。
私も人類の一員ではありますが、臆病という感覚が、同世代の日本人やオーストラリア人の平均値と比べてどうやら少ないようです。それは、頑丈な肉体を持って生まれてきてしまったことと無縁ではないでしょう。滅多に病気しない、30数年生きてきてお腹を壊したことは数回しかない、肩こりも貧血も経験したことがない、生傷をたくさんつくっても、放っておけば瞬く間に治癒してしまう、20歳の頃は50数時間眠らず、その間肉体労働のアルバイトを連続でやっても全然平気だった・・・ここまで身体が丈夫だと、性格も楽天的になりますし、行動力も好奇心も旺盛になります。「人生、ちょっとくらい傷ついたって、何とかなるだろ」って、心の底から思ってるからです。反面、私みたいな肉体派の人間は創意工夫をあまり得意としません。あれこれ工夫しなくても、丈夫な肉体があれば世の中渡っていけると思っているからです。
こんな私からみると、「臆病」という資質が偉大に見えることもあります。例えば、ヒマラヤ登山隊のリーダーが、山頂を目前にして、悪天候、手持ちの食糧、水、隊員の疲労度など、いろんな要素を総合的に判断した結果、無念の下山という決断に至る・・・こういうのって、カッコいいと思います。彼らは生来臆病だからこそ、過酷な登山パーティーのリーダーがつとまるのでしょう。あの植村直己さんも言ってましたね。自分は臆病だから、ここまでやれたんだと。
ただ、彼らが言う「臆病」っていうのは、情報収集・分析を徹底的に行う、冷静な事実認識を積み重ねる、それでいて「人間、死ぬときは死ぬんだ」と、肝が完全に据わっている・・・そんな人が判断をするとどうしても慎重にならざるを得ない。それを指して「臆病」と言ってるんですよね。これは、実に勇気ある臆病だと思います。
この種の「臆病」は、例えば、戦争やテロが起こったから海外旅行は当分差し控えようとか、何か事故が起こった際、金切り声をあげて「絶対安全」と叫ぶ人々の「臆病」とは、全く別物だと思います。後者は、情報収集・分析をまるですっ飛ばして、しかも、「人間、いつかは死ぬ」という事実を謙虚に受け容れることもできず、ただリスクから逃げることだけを考えている・・・私にいわせれば、彼らは「勇気のない臆病者」です。でもちょっと考えれば、リスクを知らずして、リスクから逃れることなんかできるはずないんですけどね。
思うに、今世紀に入っていろいろ不幸でショッキングな事件が頻発したせいか、日本を含めた先進国の人間を中心に、「勇気のない臆病者」が大量発生しているのではないかと。あるいは、社会のなかで目立たなかった「勇気のない臆病者」が、にわかに顕在化しただけなのかもしれませんが・・・いずれにせよ、彼らの意気地ない行動が、この世界をつまらない、停滞した、淀んだものにしているのではないかと、私は危惧しています。
最後に、私がここまで書いてきたことに少しでも共鳴した方は、まず自分自身が、「勇気のない臆病者」になっていないか、チェックしてみましょう。そして、自分の身の回りにいる「勇気のない臆病者」(ご両親かもしれませんよ・・・)が、自分の意欲に冷や水をぶっかけているのなら、臆せず、ガンガンぶつかっていきましょう。私は応援します。自分の可能性を信じて、チャレンジしていく人たちを。なりたい自分になるために、喜んで試行錯誤する人々を。私たち一人一人のチャレンジが、この世界をワクワクしたものにするのですから。
|