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シドニー日記・職業生活編第22回

非英語人の幸せ(2001/01/30)


 今振り返ると20世紀は英語の時代でした。21世紀もおそらく英語の時代になるでしょう。この世紀のちょうど変わり目の年に、私は英語の国にやって来て日々英語で生活するようにようになったわけですが、これも時代を象徴しているのでしょうね。

1.非英語人のぼやき

 ご存知の通り、私は日本語を母語として育ってきました。そして、私が物心つくはるか前から、英語は事実上の世界標準言語でした。不幸なことに、英語という言葉は文法にしても語彙にしても日本語とはおっそろしく異質ですから、習得するには長い年月がかかります(成人でも2000時間の学習が必要だと聞いたことがあります)。その上、私の少年時代はバブル前で日本に外国人がほとんど来てませんでしたから、生きた英語に触れる機会もほとんどありませんでした。ですから、私は大学時代に世界各国を放浪するまでは、日本の多くの仲間と同じように英語はほとんど話せませんでしたし、英字新聞も死ぬほど辞書を引きながらようやく読めるような状態でした。

 当時若くて感受性の強かった私は、この世の不条理を強く感じていました。それはもちろん英語国民と我々非英語国民との言語格差です。同じ人間として生まれたのに、なぜ私たちは苦労して英語を覚えなくてはならないのか、そして英語国民はなぜそんな苦労もせずにふんぞり返っていられるのかと。この世の中に不条理は数多くあれど、この言語格差ほど露骨な不条理も珍しいでしょう。

 その例を挙げろと言われれば、一晩中だって話できます。例えば、アメリカ企業が日本に進出して、アメリカ人の駐在員が現地の日本人社員と一緒に仕事する場合、アメリカ人は日本語を覚えずに英語だけで仕事して、日本人は不得意な英語を一生懸命使って仕事するのが通常です(実際私はそういう経験を随分してきました)。それなのに、日本企業がオーストラリアに進出した場合、現地社員が日本語を話してくれるわけではありません。無論例外はあるでしょうが、やはり日本人駐在員が英語を使ってオージー社員と仕事するのが通常の姿でしょう。

 このことは駐在員じゃなくても、私のような移住者にも言えます。例えば、英語圏から日本へ移住(長期滞在?)して英会話学校で教えているような人々の場合、私の知る限り数年滞在しても日本語は片言だけというケースが多いように思いますが、仕事も日常生活も英語だけで事足りることが多いので問題はあまり起きないし、却って「日本語お上手ですねえ」とチヤホヤされることでしょう(注.顔が白人じゃなくてアジア人だった場合は話が別ですが・・・)。ところが、日本からオーストラリアに移住して、もし彼らの日本語レベル程度の英語力しかなかったならば、無視されるか笑い者になるだけでしょう。実際私は日本にいる平均的なノバやジオスのネイティブ講師が日本語学習に費やしたのと比べて数十倍の時間と労力と金銭を英語学習につぎ込み、それなりの効果を挙げたはずですが、それでもオーストラリアで「英語お上手ですねえ」とチヤホヤされることはあまりありません。

 そして、英語を学ぶ日本人が誰もが直面する、朝野を挙げての「日本人は英語がヘタだ」の大合唱。TOEICの平均点がアジア21ヶ国中18位みたいなデータを見せられて、まるで「お前らバカだ、これでは国際社会に通用しない」みたいに言われる屈辱に耐えながら(無視しながら)、英語学習に励まなくてはなりません。私の知る限り、この大合唱の半分以上は日本人の口から発せられているようです。彼らに対し、「手前が少しばかり英語ができるからって、そんなにけなすのはカッコ悪いから慎めよな。がんばって英語を勉強している同胞をもっと優しくいたわれよな」と思うのは私だけでしょうか。

 さらに言えば、英語圏の人間のなかに、外国人に対して「お前ら英語しゃべるのは当然だろう」という態度を露骨にとる人が少なくないのも残念なことです。そういう彼らの中で、2000時間にわたる日本語学習に堪えてマスターするほどの根性のある人がどれ程いるというのでしょう。彼らが英語国民という有利な立場を得たのは自分の能力でもなんでもなく、単に運が良かっただけなのですから。そういう運に与れなかった我々に対して、もっと理解といたわりを示して欲しいと私は思います。

2.非英語人の幸せ

 これまで思いっきり不条理を感じてきた私ですが、オーストラリアに移住して実際に仕事して、多少余裕が出てくるようになると、逆に「自分は非英語人に生まれて良かったな」と思うようになりました。

 私はいま、英語ばかり使う職場に入って、日々苦労しながら英語の語彙やフレーズ、言いまわしを日々現場で覚えているわけですが、実はこの過程がすごく楽しいのです。それはちょうど5歳児が周りのもの全てに興味を持って、水がスポンジにしみ込むような勢いで言葉を覚えていくような体験なのです。私の日々の仕事は単なる業務だけでなく、英語という言語(オージー方言)に関する、新鮮な発見の連続に満ちているわけです。

 例えば、オージーの同僚がeメールに書いた文章を読んで、「ああこんなかっこいい言い方ができるんだ」と感心して、「次回は自分でも使ってみよう」と思ったり、チャットツールで遊んでいると同僚がディープなオージースラングを連発するので、その方面の語彙にやたら詳しくなったり、それを私がオージーの前で実際に披露すると笑いがとれたり・・・(多分、私のような外国人が慣れないスラングを使うという意外性がうけるのでしょう)。

 こういう日々の言語体験を通じて思うことは、オージー英語はとても論理的でクールな反面、とても生き生きとした感情表現に満ちた言葉であり、そして自然への優しさと細やかな感受性に満ちた言葉だということです。実際のところ、この言葉の持つ奥深さと豊かさには私も半ば圧倒されています。

オージー英語についてもっと知りたい方はこちら

 そしてこうした英語体験を通じて、自分の母語である日本語に関しても随分見直すことができました。いま感じることは、日本語は単に情緒表現に適するだけでなく、論理的にもすぐれた言語であること、そして知的創造に適した言語だということです。

※日英(中)の言語比較については稿を改めて書きます。

 私が思うに、英語国民はその圧倒的な言語支配力のために、こういうすばらしい言語体験をするチャンスには決して恵まれないのではないのでしょうか。実際、世界中で最も英語が通じないと言われる日本や中国に行っても英語だけで事足りることが多いわけですから、後は推して知るべきでしょう。ということは、世界どこへ行っても私みたいに自分の母語以外の言葉を必死になって覚える必要に迫られないわけですから、余程の強い意志や興味がない限り外国語の習得は難しいと思うし、したがっていろいろな言語の間を行ったり来たりして、その発想の違いとか言い回しの面白さとかを楽しむチャンスも限られてしまうと思うのです。

 最後になりますが、私たちが非英語人として生まれたことはハンディではなく、英語その他の言語を学ぶチャンスと考えるべきだと思うのです。英語をマスターするのは決してラクではありませんが、マスターした暁には英語ネイティブ以上の豊かな言語世界を手にできるということ。そしてそれは間違いなく自分の人生を豊かにするものだということを、改めて強調したいと思います。


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