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シドニー日記・移住準備編 第4話

転職活動後編・最後はやはり大学名(1997年1月)  

 

 前編にも書いたが、フルタイムで仕事しながら転職活動するのは想像以上にしんどい。面接でもいじめられて精神的にも辛い。でも、今落ち込んでいるヒマはなかった。明日の希望を信じて、走りつづけるしかなかった。

 すると、面白いことが起こった。N社の面接官にボロクソにいじめられるまでは挫折の連続だったが、あれ以降急に運が向いてきて、面白いように面接に受かるようになったのである。96年12月はじめのことだった。もっとも、うまくいった面接はすべてI社とP社の紹介する会社ばかりで、コンサルタントとの相性の悪いS社の紹介する会社の面接は失敗続きだった(そのうち、紹介もされなくなった)。

 うち何社かは最終面接までたどりつくことができた。近いうちに転職できるという見通しが出てくると、今度は今勤めている会社をどうやって辞めるかという問題が出てくる。すでに、6時か6時半になるとそそくさと帰っていく日々が二ヶ月近くも続き、会社の仲間の間では「こいつ、辞めるんじゃないか」と疑念が芽生えていた。でも、私は会社に愛着を感じていたので、社長や仲間を傷つけるような辞め方はしたくなかった。辞める口実としては家族のことを持ち出すのが一番良い。私の場合、実家が商売をしていることを皆知っていたので、「父親が病気がちなので自分が家業を継ぐ」というシナリオを考えついた。そして、社長や人事部長には事あるごとに「父が病気なんです」と話した。言わば伏線を張ったのである。そのころ実家では、父は毎日二合飯を食べながらピンピンしていた。

 年末になると、確実に内定をもらえると思われる会社が3社現れた。外資系の大手ITコンサルティングのA社、ロータス・ノーツ関連ビジネスで急成長中のベンチャー企業C社、大手ベンダー系の中堅企業J社である。これら3社はすべて特色ある魅力的な企業で、仕事の内容や給料もほぼ希望通りだったので、どれを選ぶかは難しい問題だった。でも、転職できる見通しが立ったので、1997年の正月は明るい表情で迎えることができた。

 年が明けると、いよいよ3社の最終面接ラッシュが始まった。最終面接は重役クラスと会うため、どうしても平日の勤務時間中になってしまう。何度か半休をとらなくてはならないため、その口実探しに結構苦労した。そして、いよいよ会社を辞める旨を人事部長に伝える日が来た。1月8日のことだった。その二日後、社長と東京プリンスホテルのレストランで最後のランチを共にした。社長は言葉こそ穏やかだったが、落胆の色を隠せないようだった。引き止める言葉にも力がなかった。私は申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。新しい出会いの裏には必ず辛い別れがある、夢と希望に満ちた新生活の裏には必ず慣れ親しんだ生活との悲しい訣別がある。この時ほどそれを痛感したことはなかった。

 4日後、外資系大手A社から内定をもらうと、C社とJ社への入社を断った。A社は全世界に(もちろんオーストラリアにも)オフィスがある、英語を使って仕事をするチャンスがある、ITはもちろん将来的にはビジネスのコンサルティングに進む道もある、ということが主な理由だった。

 いま考えると、3社が私を採用してくれた唯一の決め手は大学名だったように思う。私の母校・一橋は東大や東工大と同様、どんな不況になっても就職に困らない、日本社会では特権的な地位にある大学の一つである。一方私は、海外就職を目指す多くの人と同じように、「大学の名前には頼らずに、自分の力で将来を切り開いてみせる」といきがっていた人間である。まさか卒業後何年も経って、転職で八方ふさがりになりかけた時に、大学名に救われるとは思ってもみなかったし、正直言って複雑な気持ちである。27〜28歳という年齢は、もしかしたら就職や転職に大学名を使える最後のタイミングであり、まさに滑り込みセーフだったのかもしれない。ま、いずれにせよ、「ミレニアム移住3年計画」最大の懸案の一つであるIT業界への転身を見事果たし、私は一歩確実に夢へと近づいたのである。

 

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