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21世紀の歩き方・第8回

雨降って、世固まる (2003/3/2)
−1億総悲観論から日本史を読む−


 私はオーストラリアに移住して、もうすぐ3年になります。海外に住んで多くの日本人と同様、私も年に1〜2回の里帰り帰国が楽しみで楽しみで、その都度、「あれ食べたい、ここ行きたい、何買いたい・・・」などと、夫婦二人して楽しく皮算用やってます。その反面、帰国して気が重くなることもあります。それは、いま日本全体を重苦しく覆う閉塞感と、世の中にあふれる悲観論です。日本語の活字に飢えて書店に行くと、そこには「日本はもうダメだ、おしまいだ」式の、終末論的な見出しの本がうず高く積まれ、晴れて里帰り帰国した私の気分を暗くさせます。

 私が日本を出国した2000年5月から約3年間、日本ではいろんなことが起こりましたが、その基調はやはり、一層厳しさを増す経済状況、デフレの長期化、財政赤字の深刻化、失業の増加、犯罪の増加、国際的地位の低下、その一方でなかなか進まぬ経済社会システムの改革など、暗いニュースで占められていたと思います。それは、日本の外に住んでいてもよく分かります。未来の明るい展望がなかなか開けない世の中で、悲観論が幅をきかせるのも、気分としてはよく分かります。ですが、国民1億総悲観論ともいえる昨今の世相は、明らかに行き過ぎだと思います。

 私は、悲観というものが大嫌いな人間です。私のこれまで歩んできた人生で、自分自身に悲観して良い結果を生んだことは、ただの一度もありません。逆に、いくら根拠薄弱であっても自分に自信を持った時こそ、積極果敢にチャレンジする心のエネルギーが生まれ、大きな成果を挙げてきました。「ダメ」という言葉は私の持つ語彙のなかで最大の禁忌語です。一寸の虫にも五分の魂あり、この世に一体、どの角度から見ても全く取り柄のない、完全に「ダメ」なものなどありますか?特に、日本の国みたいにどうフェアに見たって全然ダメじゃないものを「ダメ」と言う精神、それを私は心の底から憎悪します。本っ当に、「ひっ捕らえて即刻死刑!」にしたくなるほど、むっちゃくちゃ嫌いなのです。

 19世紀ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクは、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉を遺しました。20世紀アメリカの経済学者ガルブレイスは、「大衆は、耳に心地よい言葉を受け入れ、それが世の中の通念/常識となっていく」、「有識者といわれる人々は、そうした大衆に迎合して自身の地位を確保していく」と喝破しました。いま日本の「有識者」の面々は、バブル崩壊後たかだか10年という時代の枠内でものを考えすぎてはいませんか?あるいは、いま大衆の耳目を集めやすい悲観論に迎合して、メシを食っていこうとしているのではありませんか?それが、高等教育を受けたエリートのやることですか?エリートなら、もっと広い歴史的視野に立ち、冷静に物事をみて、それを大衆に分かりやすい言葉で語ってあげるべきではないのですか?

 ですが、そういう歴史的視野に立ってみた場合、日本の社会は今も昔も、自己否定を通じて変革のエネルギーを生み出してきた、という側面を無視することはできないでしょう。つまり、世の中が安定してる時はいいんだけど、それが一旦おかしくなると、機能不全に近い状態にまで事態を悪化させちゃう。そこから悲観ムードが世の中にあふれ、それが変革のエネルギーに変わって既存のシステムが打倒される(ショック療法、というやつですな)。変わって新しい勢力が外国の見よう見まねで、大急ぎで安普請のシステムをつくり、国民がそれに一生懸命あわせる。そうこうしてるうちにシステムがいつの間にか日本化しちゃって、外国のモデルとは似ても似つかなくなるけど、おかげで世の中が安定する・・・そんなことの繰り返しだったのではないでしょうか?

 そんなことをつらつら考えているうちに、地元のコミュニティカレッジの受講案内が届きました。そのなかに、「ショウグンとテンノウ」と題した日本史のコースもありました。その紹介文が実に面白い・・・「世界広しといえども、日本ほど浮き沈みの激しい歴史を持った社会はほとんどないだろう。栄光と挫折、成功と破局・・・その多くは、日本社会の内部運動によって引き起こされたものだ。これは、単に20世紀だけの現象ではない。イザナギ、イザナミの国生み神話以来、今日に至るまで、断続的に繰り返されてきた現象なのだ。これを学ぶことが、日本という、我々にとって大切な隣人を理解するうえで欠かせないのだ」・・・私は思わず、拍手してしまいました。ここオーストラリアでコミュニティカレッジの講師をやっている人のなかに、私と同じ問題意識を持ってる人がいる、というのが嬉しかったのです。

 今回もまた前置きが長くなってしまいましたが、今回は有史以来日本の社会を特徴づけてきた「浮き沈み」のサイクルを、私の乏しい日本史知識を総動員して(注.大学受験は世界史選択でした・・・)、自分の言葉で語ってみようと思います。

1.試論〜日本社会の構造変化サイクル

 下の図は、聖徳太子の昔から今日に至るまで、日本社会にみられる社会体制の構造変化のサイクルを図式化したものです。


 この図だけでは分かりにくいと思うので、言葉で補足しますね。

@秩序草創期・・・これは、外国のモデルを手本にして、新しい社会体制を大急ぎ(安普請の突貫工事)でつくる時期です。この時期、国民はいろんな苦痛を味わいながらも、新しい現実にあわせるよう、必死に努力します。

A秩序安定期・・・これは、外国に似せてつくった社会体制が、いつの間にか日本の社会風土にあわせて変質(日本化)してしまい、それに国民が慣れきって、社会が安定する(世が固まる)時期です。

B秩序混乱期・・・これは、安定していた社会体制が内部矛盾の拡大や客観状況の変化によって行き詰まり、その病患がどんどん悪化して社会体制が機能不全に近い状態にまで陥り、結局は打倒されて新たな社会体制に取って代わられる時期です。

 実際、このモデルに基づいて考えると、日本の歴史が経験したいろんな社会現象が説明できることが分かります。私のみるところ、日本史は過去5回、大きなサイクル(社会体制の構造変化)を経験したようです。それを次の表にまとめてみました。

 
秩序草創期
秩序安定期
秩序混乱期
秩序草創期の社会モデル
秩序安定期の社会モデル
I

聖徳太子政治
大化の改新
初期律令政治

(593〜710)

奈良時代
平安時代(藤原時代)

(710〜1156)

保元平治の乱
源平合戦

(1156〜1192)

中国律令制
公地公民制
荘園制
貴族政治
II

鎌倉政府成立
承久の乱

(1192〜1221)

北条執権政治
建武の中興
足利将軍時代

(1221〜1467)

応仁の乱
戦国時代

(1467〜1573)

鎌倉武家政権 地頭・管領による地方割拠
III

織豊時代
江戸幕府成立

(1573〜1615)

江戸時代
鎖国

(1615〜1853)

黒船襲来
幕末の風雲

(1853〜1868)

(大航海時代)
織田信長の天下構想
江戸幕府体制
VI

明治維新
西南戦争
大日本帝国憲法

(1868〜1890)

日清・日露戦争
第一次大戦
世界大恐慌

(1890〜1936)

2・26事件
太平洋戦争

(1936〜1945)

西洋列強の国家体制 中央集権体制
日本型軍国主義
V

米軍占領期
五五年体制

(1945〜1955)

高度経済成長
バブル経済

(1955〜1992)

平成不況

(1992〜?)

米国型民主主義・資本主義 自民党政治
日本型資本主義

 

第一のサイクル:聖徳太子から源平合戦まで(593〜1192)

 日本史のあけぼの・・・日本列島に農耕技術が伝わり、生産力が増大し、近畿地方を本拠とする統一国家らしきもの(大和朝廷)ができつつあった頃、海を隔てた中国大陸では、その何千年も前から、非常に高度な文明が花開いていました。折りしも、隋という大帝国が中国を統一し、東方の海に目を向け始めた頃、日本史の生んだ屈指の天才政治家、聖徳太子は、隋に対して独立国宣言を行うとともに、遣隋使を派遣し、その国家体制を研究し、日本に移殖しようと努力しました。

 後年、中大兄皇子と中臣鎌足がその遺志を継ぎ、その次の天武・持統天皇と藤原不比等の代になって、中国国家システムの移植作業はほぼ完了しました。この間、約100年かかっています。関係者の努力は並大抵のものではありませんでした。原始共同体に毛が生えたような当時の日本に、当時人類の最高到達点ともいえる中国の国家体制を研究し移植しながら、一方で戦争ばっかりやってたんですから(大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱etc.)。遣隋使や遣唐使だって、当時の航海技術ではそれこそ「宇宙旅行」に近いもので、派遣者の多くは生きて帰ってこれませんでした。命がけでした。日本は、そこまでやったんです。それも全部自費です。おっそろしい程の貧乏国だったのに・・・

 超人的な努力をして、100年かけて日本に移植した体制とは、「律令体制」とよばれる、一言でいえば法治主義です。その根幹は、公地公民といわれる、今日でいう共産主義みたいなもので、国家が土地を一元的に管理して、人民に分け与え、租税(租庸調、雑徭etc.)を徴収して、その余剰分を治水や国防などに使う、という筋書きになっていました。ところが面白いことに、律令制の移植が完成すると時を前後して、公地公民の原則が音を立てて崩れはじめます。結局、日本の風土に合わなかった、ってことなんでしょうね。

 そのエポックメーキングな出来事が、三世一身の法(723)と、墾田永年私財法(743)でした。これらによって、国家管理による土地制度は事実上崩壊し、日本は荘園という私有地中心の国になりました。要は、制度が日本化して、中国のモデルとは似ても似つかなくなったのです。しかし、日本化した制度のもとで、開墾は進み、人の世は安定し、文化も発展し(仮名ができたのもこの時期です)、遣唐使を廃止して大陸文明の流入が途絶えても、紫式部や新古今和歌集、平等院鳳凰堂を生むだけの国風文化の発展をみたのです。

 京の栄華の裏で、地味ながら着々と力を蓄えつつある勢力がいました。「アヅマ」と呼ばれる岐阜県以東の地域の開墾農場主たちです。「アヅマ」は長いこと後進地域とされ、京を本拠とする貴族、寺院によって搾取される立場にありましたが、アヅマの関東平野は日本列島最大の面積を持ち、温暖で地味肥え水も豊富。上方にいつまでも搾取される貧しい土地ではありませんでした。経済力をつけた農場主たちは、自ら武装して「サムライ」となり、平家、源氏という天皇の血筋をひく京の名家を押し立てて、自らの土地所有権を守るために、京の貴族勢力と対立します。そして、保元・平治の乱(1156)を皮切りに動乱の世になり、源氏が平家を破って、源頼朝による鎌倉幕府成立に至り、第一のサイクルは完了します。

第二のサイクル:源頼朝から戦国時代まで(1192〜1573)

 頼朝政権は、まことに危なっかしい政権でした。京の貴族勢力を倒すために、関東武士団の期待を一身に背負って、京から担ぎ出された人物なのですから。関東と関西の利害対立、その鋭い切っ先の上に乗っかっただけの、権力の裏づけのない紙人形のような政権でした。後年、頼朝の孫、3代将軍源実朝が京都朝廷への強い心理的傾斜を見せはじめると、武士(御家人)たちから見捨てられ、あえなく倒されました。代わって、頼朝体制のナンバー2であった、関東武士出身の北条氏が権力を握り、慌てた京都朝廷が派兵するとこれを武力で打ち破り(承久の乱−1221年)、日本史上初、アヅマを本拠とする本格武家政権が、ようやく安定をみました。     

 北条氏は、日本史上でも稀な、すぐれた実務的統治能力を持つ政権でした。相次ぐ戦乱で肥大した論功行賞の要求をうまくコントロールしつつ、法制度を整備して常にクリーンな政治手法をとるとともに、「いざ鎌倉!」という御家人たちの忠誠も得ました。世の中は安定し、文化も栄え、日本仏教の主な宗派(浄土宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗etc.)もこの時代に出揃い、運慶・快慶の手による仏教彫刻、琵琶法師に象徴されるような、活き活きとした時代でした。       

 安定した北条の世を打ち破る出来事が、モンゴル帝国の来襲〜元寇〜でした。二度にわたる元寇は、幸いにも撃退できましたが、それによって天文学的に肥大した御家人たちの論功行賞要求に応えられるはずもなく、徳政令(1297)みたいな失策をやって金融システムを破壊してほどなく、北条氏は滅びます。奇しくも、京に後醍醐天皇というバケモノみたいな人物が出て、建武の新政という、時計の針を平安時代にまで戻すようなことを試みましたが、結局武家時代の流れを止めることはできず、結局足利尊氏が鎌倉幕府の後継者の地位におさまりました。       

 この間、南北朝時代、室町時代と、中央政治史の上では動乱の時代が続き、北条氏全盛時代のような安定はなくなりましたが、でも日本全体を見渡せば、中央政府のコントロールがあまり及ばないところで、平穏で充実した世の中を過ごしていたようです。室町時代は農民の生産力も増大し、人口も増え、ごく最近まであった日本の農村文化の原型は、この時代に成立したといわれています。        

 しかし、応仁の乱(1467)によって中央政府がまるで世の中をコントロ−ルできなくなった時点で、「乱世」がはじまります。戦国大名が全国を割拠し、北陸地方には加賀一向一揆という、農民自治共和国みたいな物凄いものもできて、それら各勢力が入り乱れて、100年を超える国盗り、下剋上の戦乱時代になります。それに終止符が打たれるのは、織田信長の出現を待たねばなりませんでした。

第三のサイクル:織田信長から幕末まで(1573〜1868)

 織田信長は、日本史上最大の鬼才でした。大海に隔絶された日本列島にあって、戦国大名でひとり彼だけが、東アジアに迫りくる「大航海時代」の息吹を感じとり、その時代に相応しい強力な統一国家をつくろうとしました。 世の中が「ガイアツだ、たいへんだ!」と騒ぐ前に、彼がひとり率先して旧勢力(戦国大名、農民一揆)を打ち破り、新しいテクノロジー、新しい通商システムを基礎とする近代国家(?)日本への扉をまさに開けようとしたその途端、日本の現実(明智光秀)によって倒されました。信長は、自分に反対する勢力は容赦なく皆殺しにするような、日本至上初の絶対的独裁者でしたが、日本の社会はそういう独裁者の出現を本能的に嫌うところがあるのかもしれません。

 代わって豊臣秀吉が出現し、信長路線を継承し、通商システムを発展させるとともに、「外に開かれた、大航海時代に打って出る日本」の意思表示として大阪に壮大な城を築きました。同時に、天下統一の余勢を駆って、朝鮮半島への侵略を試みましたが、これは失敗し、その頃から日本は極端に「内向き」になっていきます。その土壌のうえに、徳川家康による江戸幕府が成立しました。

 江戸幕府は、信長や秀吉が志向したような中央集権政府ではなく、藩による地方分権(封建制)を基礎として、その上に幕府がふんわり乗っかるような柔らかいスタイルの統治体制でした。ですがそれは巧妙に仕組まれたもので、将来幕府の脅威になりそうな勢力は遠国に押し込め、鎖国によって彼らが外国勢力と手を結ぶのを厳しく禁じ、同時にキリスト教を厳しく弾圧しました。要は地方分権だけれど、思想言論や通商の自由を禁じ(これは徹底できませんでしたが・・) 、各自が相互に監視し合うような密偵的政権といえるでしょう。

 江戸時代は、信長・秀吉時代のような活き活きした躍動感は感じられないものの、社会の方は安定しました。元禄時代を過ぎると生産力は伸びず(※江戸時代を通じて、日本の人口はほとんど増えなかった)、飢饉や財政難もたびたび起こって窮屈な時代だったと思われますが、天下はずっと泰平でした。日本人というのは、窮屈なら窮屈なりに自分の暮らしをそれに合わせてしまう、適応能力があるのかもしれません。社会全体が、惰眠を貪っていた時代なのかもしれません。でも、その眠りを破ったのは、浦賀沖に現れたアメリカの4隻の巨大な軍艦でした。

 それから日本に幕末の激動の時代が訪れますが、よく知られた話なので、ここでは詳しく述べません。新しい状況に全くなすすべを知らず、問題先送りとなし崩し的開国に終始した江戸幕府は、結局は打倒され、日本は明治の世を迎えます。

第四のサイクル:明治維新から敗戦まで(1868〜1945)

 明治維新政府は、軍事、技術、産業から学問、文化に至るまで、社会のあらゆる領域において、徹底した「欧化」政策をとりました。同時に藩を撤廃し、サムライ階級を消滅させ、農民からは現金で租税を取り立てて徴兵までするという、非常にドラスティックな荒療治をやりました。おまけにカレンダーまで西洋暦に変え、大変な後進国だったのにお雇い外国人をとびきり高給で雇い、西洋の見よう見まねで議会制度や官僚制度、裁判所までつくり、憲法までつくりました。まさに自らの身を切り刻んで外科手術を施すように、自発的に西洋文明の移植を行った時代なのです。

 その間、西南戦争など反対勢力による反乱が全て鎮圧され、大日本帝国憲法を発布するあたりから、欧化のアイテムは一通り出揃いました。とはいえ、日本史の例にもれず突貫工事でつくった制度なので、議会制度はイギリス、官僚制度や地方制度はフランス、憲法や軍制はドイツ(プロシア)を下敷きとしていて整合性を欠く上、その発想の根底にあるルソーやモンテスキューの思想も十分理解しないまま導入したので、はなはだ不完全なものではありましたが・・・そんな制度のもとで、日清・日露戦争にもなんとか勝つ(日露戦争が、軍事的勝利であったのかは別として・・・)ことができた頃から、弱小国・日本はにわかに自信をつけていきました。

 ですが、それがやがて自信過剰や期待過剰となり、明治体制破滅の一因となりました。日本は日露戦争で余った軍人の首切りを決行できず、国民の領土拡張要求を抑えることもできず、日本は恒常的に他国との戦争を必要とする国になりました。さして戦略もないまま、軍人の仕事をつくるための戦闘行為を、主にアジア大陸において盛んに行いました。それが大正時代まではなんとか機能していたけど、大恐慌以降は、もはや政治が軍部を抑えることが不可能になりました。首相が平気で暗殺されるような時代になり、日本は国家としての統一された意志を持たないまま、出口のない戦争に突入していくことになります。その結果は、言うまでもありません・・・

第五のサイクル:戦後復興以降(1945〜)

 日本の戦後復興は異例のスピードで進みました。折りしも東西冷戦が始まり、日本のすぐ近くで朝鮮戦争が起こったことでアメリカによる数々の支援を受けた、という幸運もありましたが、日本人の勤勉さと、明治以降培ってきた高い技術・教育水準が幸いして、戦後復興にとどまらず、高度経済成長を経て一気に先進国の仲間入りを果たし、それでも勢いは止まらず1990年前後は経済力でアメリカを凌駕して世界で最もリッチな国、と呼ばれました。これだけ短期間に1億人を超える国民が経済的に豊かになった例は世界史をみても例がなく、「日本の奇跡」と呼ばれました。

 この時期、日本社会のモデルとなったのはアメリカの民主主義、および資本主義でした。アメリカも、戦後日本の諸制度をアメリカ型にするべく、いろんな援助を行ってきました。ところが、結局日本の土壌に根付いたのは、アメリカ二大政党制とは似ても似つかない自民党政治であり、株式市場を通じたシビアな利潤追求を基調とするアメリカ資本主義とは大きく異なる、土地担保と護送船団方式の金融システムであり、系列・グループで組織化された「会社」社会でした。これが、30年以上はうまく機能しました。うまく行き過ぎて、80年代後半にはアメリカから「日本異質論」が出て、日本経済のシステムを変えろという注文が頻繁に出されました。

 しかし、こうした後進国型、キャッチアップ型の日本式システムでは、巨大化しすぎた日本経済をさらなる成長へと導くことができず、バブル崩壊以降、日本経済は出口の見えない長期低迷を続けています。今なお、そうです。

2.サイクルを生み出すのは何か?

 ここまで、長々と日本史を振り返ってきましたが、この歴史分類だけでは、まだ物事を半分しか語ったことになりません。問題は、一体なぜ、日本社会は何度も、社会の根本的なつくり変えを余儀なくされたのか?日本社会に内在するいかなるメカニズムによって、こうしたサイクルが繰り返されるのか?という点です。 これははっきり言って、私の力量をはるかに超える問題なんですが、結局は日本列島の客観的条件や精神風土が、大きく影響していると私は考えます。

 まず第一に、日本は未だかつて世界文明の座についたことがありません。世界文明とは、世界の人々の政治・経済・技術・学問などあらゆる人間活動の領域で突出したパワーを持ち、他の地域、そして全世界に大きな影響を及ぼし、その時代の多くの人間の生き方や社会制度の規範となるものです。旧くは西洋におけるギリシャ、ローマ帝国や東洋における中国(唐)、近代になるとヨーロッパ(特に大英帝国)が世界文明の座にありました。現時点で世界文明の座にあるのはアメリカ合衆国でしょう。

 一方、日本を含め、世界文明の座にない周辺の国々は、世界文明から多大な影響を受け、自国の社会制度をそれにあわせて変えよう(または、変えねばならない)という、強烈な圧力がかかります。上の分類で言っても、サイクルI(聖徳太子)、VI(明治維新)、V(戦後日本)に関しては、明らかに外部にある世界文明の刺激を受け、自発的に自らを変えようとした例でしょう。 この刺激こそが、秩序草創期を演出したのでしょう。

 自らが未だかつて世界文明になったことがなく、今後そうなると思ってる人が少ないので、日本は社会変革のモデルを、常に国外に求めることになります。ですので世の中には、「福祉は○○国に学べ」、「金融制度は△△国に学べ」みたいな言葉があふれ、「なんとか国の先行事例」をもとに、それを日本風にちょっとアレンジしたものが法案やガイドラインになったりします。ですが幸か不幸か、日本は文化的にみて世界でも孤立している国ですので、自らと全く異なる社会風土で発達した制度が、そのままのかたちで日本に根付くわけはなく、したがって運用段階で日本化して、元のモデルと似ても似つかないものになってしまうのです。これは、秩序安定期に顕著にみられる現象です。

 第二に、日本には汎神論的な風土があり、人々は特定の宗派や教義にさほどこだわりません。自らのモデルが西欧にあっても、中国にあっても、特に拒絶反応を示すことなく、自分が「かっこいい」と思えば、抵抗なく取り入れてしまう柔軟さ(軽薄さ、節操なさ)があります。また、既存のモデルが時代遅れになった時、それが結局は外来のものであるため、比較的抵抗なく捨て去ることができる、要は文明のスクラップアンドビルドが容易に行える、という風土があります。言葉を換えれば、自分自身を「空」の状態にして、そこに新しい要素を取り入れるという芸当ができるわけです。

 第三に、日本人は制度に対する慣性が強いです。どんなに不条理な制度でも、規制でがんじがらめの暮らしでも、余程切羽詰らない限り、決められた枠のなかに自分自身を合わせてしまう人が多い。「今よりビンボーになるのは嫌だ」、「不便になるのは嫌だ」と叫ぶ人はいても、それが全国的な動きになったり、政治的な声になることなく、逆に、ことを荒立てるくらいなら我慢しようと考える人が多いのも、日本社会の特質だと思います。それが、秩序混乱期になった時に、事態を早期解決することなく、いたずらに時間を浪費して事態をどんどん悪化させ、往々にして、社会制度の根本的なつくり変えが不可避のところまで、突っ走ってしまうのです。

3.サイクルを超えて

 こんな長文、つきあってくださってありがとうございます。ここまで日本の歴史を振り返ってきて、現在の平成大不況は日本史における5番目のサイクルの社会混乱期にあたると整理したところで、じゃ、私は結局何が言いたいのかというと、「日本は、こんな歴史をいつまでも繰り返してええんかいなー?」という疑問です。

 平成大不況は、何らかのかたちで必ず克服できます。そりゃ、今後いろんな苦労はあるでしょうけど(大失業?財政破綻によるハイパーインフレ?)、でも歴史が証明するように、日本人は社会の根本的つくり変えを5回もやってるんですから、社会変革の天才なんですから、今回だって、多少時間かかってみっともない思いをしても、必ず成功しますって。それに関しては、私はまったく心配しておりません。

 社会のつくり変えを何度も成功させてきた日本人というのは、ある意味才能ある国民なんでしょう。でも、ここまで国民の教育レベルが上がり、経済技術大国として世界における責任が重くなった現在、「パニックによるショック療法」→「突貫工事で安普請の社会制度づくり」というサイクルを断ち切るような自覚的な動きが出てもいいんじゃないかな、と思います。だって、確たる思想もなく、「エイヤ」で急いでつくっちゃった社会制度のもとで暮らしたって安心できないし、世界の手本にもならないですよね。

 オーストラリアという西洋社会で暮らしていると、その点がよく見えてきます。この国は、世界最強の大英帝国の文化的遺産をそのまま引き継ぎ、広大な国土と豊富な資源を、ごく少人数で占有して豊かな暮らしをしてきた、世界的にみても苦労知らずの国なんですけど、それでも、先住民族アボリジニをほぼ絶滅に追い込んだり、中国人移民を追い出して極端な人種差別を行った時期があったりと、暗黒面はいろいろありますし、また地下資源の輸出に頼る経済が行き詰まって大不況になった時代も何度かあります。そして大干ばつ、大洪水、山火事と、そういう意味ではそれなりに苦労してきました。

 そういう逆境になったとき、やっぱり西洋の社会はさすがだな!と思うことは、パニック状態になる前に、国民がちゃんと声をあげ、それが政治にも反映されて、早期に適切な、思い切った措置がとられることが多いことです。また、社会制度ひとつとっても、その背景にはどんな思想・哲学があるのかが、外国人の私にも見えやすいです。人権思想、民主主義、社会福祉・・・西洋が何百年も考え抜いた哲学をもとに、実験を重ねたうえで練り上げられた社会制度、オーストラリアはその恩恵に与っています。

 日本には、残念ながらそういう条件はありません。おおもとの社会風土、精神風土が全く違うんですから、そんなところに西洋の制度を導入して格好だけつけても、早晩「日本化」するのが関の山。いま、役所の職員とか、あんまり頭がいいとは思えない議員のセンセイ方が、大勢して北欧とかドイツとか視察旅行に行ってるけど、あんなの税金のムダだと思うんだけどな。そんな遠い国の都合いい部分だけ聞いて、知った気になって帰ってきたって意味ないでしょ。それより日本の歴史に学んで、なぜペリー来航以降、幕府役人たちはあんなに頭の悪い対応しかできなかったのか?なぜ日露戦争が終わったあと、政府は職業軍人の首切りを決行できなかったのか?大恐慌の後、議会民主主義が軍部の独走を止められなかったのはなぜか?バブル崩壊以降、日本経済をこんなに悪化させてしまったのはなぜなのか?そういうところから学ぶべきだと思うんだけどな。

 特に、既存の社会制度が機能しなくなってきた時に、ショック療法が必要になるまで事態を悪化させることなく、国民が早期に声をあげ、それを政治に反映する制度、全体の国益のために、既得権益をバッサリ切れるような強力なリーダーシップ、この辺を西洋の猿真似でなく、日本の社会でちゃんと機能できるような制度にすること、それは是非とも必要だと思います。今度大不況が襲ってきたとき、10年も時間を浪費した挙句に総理が「痛みを伴う改革」なんて言い出すのではなく、直ちに適切な措置をとり、早期解決を図れるような政治・行政システムが日本で実現可能なのかどうか、その辺を考えるべきなのでしょう。

 雨降って、世固まる・・・乾ききった大地に慈雨が降り注ぐように、この長期不況が何らかのかたちで終わり、日本の国民が明日への希望を持って、自信に満ち満ちて、仕事や遊び、子育てに励むことができる日がやって来ると信じます。それを早めるのは、米国の株式市場制度や北欧のセーフティネットに関する研究よりも、自らの歴史を振り返り、それに謙虚に学ぶことだと思います。

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