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21世紀の歩き方・第4回

民間外交官、日本を語る−その1(2002/1/9)


 南半球のまぶしい朝日に起こされ、今日も元気に出勤。身支度をしてエレベーターを下り、フィジー出身の巨漢の管理人に挨拶を交わして外に出ると、ヨーロッパ系、アジア系、インド系、中東系、南太平洋系etc.、まるで人類の見本市のようにさまざまな顔かたちの人間が歩いています。この瞬間ほど、自分がコスモポリタン都市・シドニーに暮らしていることを実感させるものはありません。

 人種の坩堝ともいうべきこのシドニーにも、もちろん多数派と少数派がいます。国民の大多数を占める英国・アイルランド系を別格として、多数派グループといえばイタリア系、ギリシャ系、ベトナム系、中国系など・・・これらのグループは人口数十万を数え、各地に大きなコミュニティをつくっています。一方、私たち日本出身者は移住の歴史が浅いこともあって、今のところ人口の1%にも満たない少数派です。その上私は日系企業や日本人コミュニティからほど遠いところで暮らしてますから、職場でもプライベートでも、「グループで唯一の日本人」となることがほとんどですし、またそのように扱われています。

 こういう、「超少数民族」の立場になった者に否応なく課せられる使命、それは「国家(民族)を代表する民間外交官」になることです。私の場合はもちろん、日本国を代表する存在になるわけで、周りの人間は私の言動や立居振舞いを見て、「日本人はこんな風なんだな」と判断することも多いのです。それはちょうど、日本人がオースマン・サンコンさんを見て、「ギニア人ってこんな感じなんだな」と思うのと似ています。多くの日本人にとって、ギニア出身の人間を見るのは初めての経験ですから、どうしてもサンコンさんがギニア国を代表する存在になってしまうわけです。

 民間外交官というのはなかなか大変な役目です。自分のことだけでなく、日本国のことも常に語らなくてはならないからです。実際、私はこれまで、日本の政治、社会、経済、文化、ビジネス慣習からラブホテル(?)、レースクイーン(??)に至るまでいろんなことを質問され、唯一の日本人としてそれに答えてきました(というか立場上答えざるを得ない)。例えば、これまで嫌というほど聞かれたのは、昨年9月に起きた米国中枢同時テロに関して、「日本の人々はどう感じているのか?」ということです。これは実に答えにくい。テロ発生の時点で私はオーストラリアにいるので、日本の世の中がどんな反応をしているのか、断片的な情報としては知っていても、肌で実感しているわけではないからです。結局当て推量で答えるしかないわけですが、それがあたかも日本国の公式見解のように受け取られたりする、この辺が難しい。自分の意見を言うこともラクではないけれど、国を代表して意見を述べることはそれに数倍する難しさがあります。

 こうした悪戦苦闘の日々(?)を送りながらつくづく実感するのは、日本の国・社会・文化を説明するのは非常に難しいということです。それは単に私の修行が足りないからかもしれませんが(私は一介の技術屋であり、日豪文化交流に携わる専門スタッフではありませんし、そのための訓練を受けたわけでもありません)、より根本的な原因は日本社会の性質にあるような気がします。結論から言うと日本社会は、@単一の原理・原則で運営された経験がなく、A国際社会に登場してまだ日が浅いために、外国の人間はもちろん、日本人自身にとっても非常に分かりにくい面を持っていると思うのです。それを承知で、敢えて日本を説明しよう、分からせようと腐心している自分の姿が時には滑稽に見えることもありますが、見方を変えれば、いまの自分は日本の社会にとって画期的な、歴史的体験をしているようにも思うのです。



1.単一の原理・原則で運営されたことのない社会

 左の写真は、私の職場のデスクを使って公開した、日本各地で撮った写真のミニギャラリーです(季節毎に更新。韓国、台湾、シベリア等で撮った写真も一部混じっています・・・)。撮影地は東京の他、北海道、青森、秋田、福島、新潟、長野、山梨、千葉、岐阜、山口、徳島、愛媛、鹿児島、沖縄と1都1道12県に及び、大都会あり農山村あり、海あり渓谷あり雪山あり、さらに伝統的な民家から大学のキャンパス、神道の儀式からお遍路まで、とにかく日本のハイライトと思う風景を私のセンスで選び、公開したものです。今のところ、かなり好評をいただいております。

 こう見ていくと、日本の風景というのは実にバラエティに富んでいて楽しいと思います。決して広い国ではないけれど、その中にいろんな要素が凝縮されていて、一種の地球の縮図のような気もします。でも、そういう「何でもあり」の状態が、かえって日本の暮らしを分かりにくくしている面もあるように思います。例えば、日本人がお正月に神社に初詣に行って(神道)、お盆に墓参りして(仏教)、クリスマスにケーキを食べる(キリスト教)のに、実はどの宗教も信じていなかったり。また、純和風の町並み(飛鳥、飛騨高山etc.)があるかと思えば中国・杭州の西湖をそっくり模した公園(大濠公園)とか、オランダの町を真似したテーマパーク(ハウステンボス)があったり、一方大都市では町並みが統一されずに無秩序にスプロール化してたりして、一体何が「日本らしさ」なのか訳分からなくなることもあります。外国人に日本を説明する上での難しさはこの辺にあると思います。

 ここからちょっとスケールの大きな話になりますが、地球人類の多くは五大陸のいずれかに住んでいます。大陸という所はいろんなグループ(部族、種族)がせめぎ合って暮らしていて、衝突や戦闘が絶えないのが通常の姿ですが、そういう中から多くのグループを心服させる、スケールの大きい考え方が出てきたりします。それは宗教(キリスト教、イスラム教、仏教etc.)であったり、思想・哲学(自由、平等、民主主義etc.)であったりするわけです。

 世界史を振り返ると、特に宗教の果たした役割は絶大です。宗教は人々をまとめ、社会をつくり、近代においては国民国家をつくるのに大きな力を発揮してきました。現代でも、地球上の大多数の国は国教(国民の大多数が信じる宗教)というものを持っていますし、また言語や生活習慣がほとんど同じなのに宗教の違いから別の国になった例なども枚挙に暇がありません。

 宗教は国民をまとめるだけでなく、人々の生活の隅々にまで浸透し、社会を秩序づける原理・原則(社会規範)としても機能します。例えば中東のイスラム教徒は老若男女問わず、毎日5度のお祈りと断食は絶対に欠かさないと聞きますし、またお隣りの韓国でも、目上の人に向かってタバコを吸える人はほとんどいないそうですが、それは儒教が原理・原則として人々の骨の髄まで染み込んでいるからでしょう。

 いま地球上にある有力な社会の多くは、単一の原理・原則に基づいて運営されていると言って差し支えないと思います。例えばアメリカ社会は「自由・民主主義・人権」という、近代西洋が生み出した思想に基づいて運営されていて、内(内政)に対しても外(外交)に対しても、その原理・原則を貫こうという傾向が強いように思います。私がいま暮らしているオーストラリアは、アメリカほど国是がはっきりしておりませんが、それでも全体として、近代西洋流の「自由・民主主義・人権」が社会運営の基本になっているといって差し支えないでしょう。

 宗教にしろ思想にしろ、原理・原則というものは実に分かりやすい。なぜなら、その根本にあるのは「ことば」だからです。しかもその「ことば」は万人に分かりやすく書かれていますから、誰でもその気になれば理解することができるし、また理解する気がなくてもイメージすることはできます。例えば、ヨーロッパ諸国は(信心深いかどうかは別として)「キリスト教をベースとする社会」、韓国や中国は(欧米化されてはいますが)「儒教をベースとする社会」といっても当たらずとも遠からずだと思いますし、そのように形容することによって誰の頭にも明確なイメージが浮かび上がってくるわけです。

 一方、日本社会の場合はどうか?日本はもちろんキリスト教国じゃないし、仏教国、儒教国かといえばそれも違う。私の知る限り、仏教や儒教が日本人の骨の髄まで染みこんだ社会規範となった時代はないわけです。かといって、森前首相のように、「天皇を中心とする神の国」と言うと大いに異論がありそうだし、近代西洋ばりの「自由・民主主義・人権」は建前にはなっていても社会運営の基本原理になっているわけでもない。歴史を通じて、日本という社会は未だかつて単一の原理・原則で運営されたことがなく、その点世界の少数派に属するというのが私の理解するところです。

 しかも、日本は単一の原理・原則で運営されることを本能的に嫌う社会だと思います。例えば、明治以後100年で、日本は表面的には西洋化しました。でも西洋の技術や社会思想は学んでも、文明のシステムそのものまで移植したわけではありません。ヨーロッパ文明の成果については必死に学んでも、それを生み出すベースとなったキリスト教や神学・哲学については意識的に避けて通ったのです。また、家族・友人知人がある宗教に入信する時、多くの日本人はその内容を確かめることなく、「それって宗教じゃないの、危ないからやめなさいよ」と言うでしょうが、そういう言動の裏には単一の原理・原則に支配されることに対する本能的な恐怖があるように思います。

 原理・原則が一つでない(見方を変えれば無原則)・・・良い悪いは別として、そのことが日本社会の姿を、日本人にとっても外国人にとっても分かりにくくしている面があると思います。だからこの国では、「日本人とは何か?」、「外国生まれの人がどうすれば日本人になれるか?」というごく基本的な問題からして難しいのです。実際に、日本で育ち日本語が完璧で顔かたちも日本人と変わらないのに、国籍が違うという理由だけで外国人扱いされたり、また外国出身で日本に帰化しても結局日本人とは見なされなかったりするわけです。それは、「どんな条件が揃えば日本人とみなすか」という基準が一つに定まっていないからでしょう。逆に、単一の原理原則で運営されている社会の場合それが明確なことが多く、どの国の出身であっても、ある思想や価値観を身に付けることによって、比較的容易にアメリカ人やフランス人になることができます。

 さらに日本の場合、好奇心が非常に旺盛で海外からいろんなものを手当たり次第導入してきましたから、生活の内容が表面的には目まぐるしく変化し、そのことが「日本のかたち」を分かりにくくしている面もあると思います。例えば、今日の日本人のライフスタイルは伝統的なそれとは著しくかけ離れていますが、かといって完全に西洋風になってるわけでもない。いろんな要素が無秩序に絡みあって、「日本的とは何か?」が全然訳分からなくなってくる。自分たちは欧米人でもアジア人でも伝統的な日本人でもない、何者なのかよく分からん状態、それを日本人は「アイデンティティ・クライシス」と呼んだりします。

 海外(特に欧米)に移住した日本人がカルチャーショックを受けた挙句、日本を盛んにけなしたり、全否定しようとすることがよくありますが、その種の反応は恐らく日本の分かりにくさ、アイデンティティの持ちにくさから来ているんだと思います。つまり、単純明快な欧米の論理に魅せられると、捉えどころのない日本を否定したくなる・・・私はそういう態度をカッコ悪いと思うし、再三厳しく批判してきたわけですが(日本をネガティブなイメージでしか語れない人間とは友達になりたくないetc.)、でもそういう衝動に駆られる気持ちは、同国人としてよく理解できます。

 原理・原則で運営されない社会・・・そのことが、日本の国内政治や外交を分かりにくくしている面も大いにあると思います。例えば日本の政治というのは、ある政治理念(これも一種の原理原則ですね)でまとまった各政党が理念を競い合うというかたちにはなっていません。長年日本の政権を担当してきた自民党は特定の政治理念でまとまった政党とは到底いえないし、逆に理念色の強い共産党、社民党、自由党などはなかなか勢力を伸ばせないでいます。また外交にしても、日本国としてどういう理念を掲げ、人類社会に何を貢献しようかという明確なスタンスを今一つ打ち出せないでいるわけですが、それは日本社会そのものが特定の理念をもって運営された経験を欠いているからだと思います。

2.国際社会に登場してまだ間もない日本

 昨年9月の米国中枢同時テロでは、イスラム教世界とキリスト教世界の長年にわたる因縁を見せつけられたような気がしましたが、この二つの世界は十字軍の時代から、つごう10世紀以上もせめぎ合いを続けてきました。互いに異なる文明のシステムが本気で取っ組み合いを続け、その過程で自分を主張し続けたり、やったやられたを繰り返してきたわけです。こういう歴史を経ることによって、自分は何者なのかがはっきりしてきますし、相手は何者なのかも身体で理解することができます。ですから、互いにどんなに仲が悪くても、ちょうど30回も40回も対戦してきた力士同士のように、互いに手の内を知り尽くしていたりするわけです。

 ヨーロッパの場合、それに加えて宗派(カトリック、プロテスタントetc.)や国民国家が入り乱れて、数世紀にわたる戦乱の時代を経験してきました。こうした「力の擦り合わせ」を経て、互いを身体で知り尽くし、その結果多くの人が「あの連中となら一緒にやれる」と思うようになって、それでEUとか通貨統合みたいな話が出てきたのだと思います。

 程度の差こそあれ、大陸(特にユーラシア大陸)に暮らす多くの民族は古い時代から異民族・異文化との本格的な「力の擦り合わせ」を経験してきたといって差し支えないでしょう。ところが、孤島に住む日本人の場合、幸か不幸か明治の世になるまでそうした経験をほとんどしないで済んできたわけです。それから100年余り、日本人は西洋化しようと懸命に努力し、戦争に積極的に参加(?)したり、世界中に経済進出したりして、かなりの密度で異民族との「力の擦り合わせ」を経験してきましたが、それでも所詮国際社会に出てから歴史が浅いですから、日本文化が世界からどれだけ正しく理解されているか、またまた日本人が世界のいろんな文化を身近な問題としてどれだけ理解しているかというと、全然不十分なわけです。例えば日本がヨーロッパのように、近隣アジア諸国(オーストラリアも?)と共同体をつくれるかといったら、それはまだまだ先の話でしょう。そのためには日本人自身が日常的に異文化体験を重ね、理解を深めなくてはならないでしょう。

 そんな新参者の国が、気がついたら世界の経済大国になり、毎年約2000万人もが海外旅行するような国になってしまいました。ほんの20年前は海外旅行など庶民には程遠い世界でしたが、今は普通のおじちゃんおばちゃんが平気で海外に行く時代です。まだまだ世界で理解されているとは言い難い国民が、一気にワーッと海外に出るようになったわけですから、当然トラブルや誤解を招くことも多いわけですが・・・良い悪いは別として、日本人が歴史始まって以来の新たな経験をしているのは間違いないでしょう。

 その歴史的体験の最前線にいるのが例えば私のような人間でしょう。オーストラリアの企業で地元の人間と同じ条件で働き、日本語もほとんど話さないような日々を送っているわけですから。これはなかなか楽しい体験です。やってる仕事自体は最先端とはほど遠いけど、日本文化の国際化という点でいえば、自分がある意味最先端にいるのかなと思うこともあります。

3.日本を語る難しさ・楽しさ

 世界全体でみればオーストラリアは親日的で、日本に対する関心も比較的高い国だといえます。でも、そういう国にあっても日本のことを説明するのは実に難しいと感じています。先ほど述べたように、日本の社会は単一の原理原則で運営されていないために説明しにくい部分が実に多いし、また国際社会の表舞台に登場して日が浅いために日本文化の認知度(理解度)も決して高くない。そんな状況の中で民間外交官を務めることは、例えばアメリカ人やイギリス人が日本に来て同じことをするのに比べると、二重のハンディを背負って仕事しているようなものだと思います。

 日本を語る難しさ・・・それゆえか、これまで日本の知識人の多くは外国の人間に対して日本を説明するという地道な知的作業を怠ってきたように思います。例えば、「日本文化は独特であり、外国人には決して理解できない」という言説が未だ大きな影響力を持ったりしていますが、私に言わせればそれは単なる「逃げ」です。常識で考えて、「お前には俺のことが理解できないぜ」と言う奴が、どうして相手と良い関係を結べるのでしょう?こういう態度は、日本人が他国民と良き関係を結び、人類の一員としてより良い世界づくりに貢献する営みを放棄しているに等しいと思います。

 またそれとは逆に、西洋人の視点を獲得し、その視点から一方的に日本を批評する知識人も目立ちます。無論、日本社会にとって外から見た批判は大変重要です。でも、西洋人が言ってるならともかく、日本人が同じような視点からもの言いをするのは「ちょっとイマイチだよなあ」と思ってしまいます。確かに日本社会を理解するのは西洋社会を理解する程単純明快にはいかないとは思います。それでも、自らの歴史、文化、伝統に基づいて、オリジナリティ溢れる自画像を語る日本人がもっと増えていいと思います。私はそうありたいと思っています。

 最後になりますが、私はここシドニーで日々考え試行錯誤するなかで、いつか自分オリジナルの「日本の自画像」のようなものを確立し、欧米人にも中国人にも理解できるような言葉で語れるようになりたいと思います。それは同時に、例えば日本国内での国際交流活動とか、韓国や中国との間の歴史対話とか、いろんな場面に役立つ知見になると思います。日本を言葉で語ること、その営みが21世紀の可能性をひらくのだと、私は確信しています。

(注)次号「民間外交官、日本を語る−その2」は、新たな発見があり次第発表いたします。