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21世紀の歩き方・第3回

西帰浦(ソギポ)の恩返し(2001/12/8)


 来年5〜6月に開催されるサッカーW杯、史上初の二ヶ国共同開催となったこの大会では、日本の10都市と韓国の10都市、あわせて20年で試合が行われるわけですが、なかでも最も異彩を放っている都市は、おそらく韓国の西帰浦(ソギポ)市でしょう。

 西帰浦市は韓国最南端に浮かぶ離島・済州島(チェジュド)のさらに南岸にある、まさに最果ての町で、人口はわずか8万5千人。そんな小さな町に4万2千人収容の大スタジアムを建設し、予選2試合と本選(ベスト16)を行うわけですから、関係者一同のW杯にかける意気込みはすさまじいものがあります。私自身、西帰浦には'88年、'94年とこれまで二度訪れたことがあり、「あの小さな田舎町がよくもまあW杯開催都市になったものだ」と新鮮な驚きを禁じえません。そして西帰浦は、私のこれまでの人生のなかで最も心温まる思い出を残してくれた土地でもあります。



 1994年3月9日、私は朝鮮半島の南海上を漂っていました。私たちを乗せたフェリーの行き先は、韓国の南の最果て、風光明媚な港町・西帰浦です。国内航路とはいえ、釜山(プサン)から距離にして270km、11時間の船旅・・・それに対し、下関−釜山間の日韓国際フェリーは220kmで正味8時間の行程・・・そう考えると、日本と韓国はあっけないほど近い。

 西帰浦の語源は「西へ帰る」・・・遥かな昔、中国・秦の始皇帝が家来の徐市に不老不死の妙薬を探しに命じた時、探し疲れた徐市がこの港から西に帰ったことから西帰浦(西に帰る港)となったそうです。

 時代は下って、現代。東の国からやってきた使節(私)は、いま西帰浦をめざしています。かつての中国の使節のように、諸国からかき集めた高価な贈り物を持参していたわけではありません。手元には日本のデパ地下で買った、1200円くらいの安いお茶菓子が1つだけ。でも胸には感謝の気持ちをいっぱいに詰め込んでいました。その気持ちを伝えたい、ただそれだけのために海を越えてやってきたのです。

 大学生活をしめくくる卒業旅行、それにしては質素な旅でした。勉学はほどほどに、とにかく旅、旅、旅・・・そして旅費を捻出するためのアルバイトに明け暮れた私の学生時代、人生の長い長い夏休み・・・にピリオドが打たれようとしている今、ここはやっぱり海外旅行して最後の思い出をつくりたいと思うのは自然な人情。ところが、修士論文に追われてバイトする暇がなかったこともあり、私の懐具合は寂しい限り。ほうぼうの貯金をかき集めてもわずか5万数千円しかありませんでした。この金額で行けるところといえば日本国内と韓国くらいしかないわけですが、仮にお金が十分あったとしても私は韓国を選んでいたことでしょう。

 私は学生時代の7年間で3大陸・20ヶ国近くを旅して、旅先でいろんな人にお世話になってきたわけですが、なかでも一番感激したのは韓国各地で受けた、想像を絶するほどの親切・熱烈歓待だったからです。旅行記にも書きましたが(昔書いたものなので拙い文章ご容赦ください)、1988年・ソウルオリンピックの年に行った初めての韓国旅行は、もう最初から最後まで韓国の人たちの好意に甘えっぱなし、23泊24日の旅程なのに宿代も食費もほとんどかからなかった程です。社会人になって忙しくなる前に、お世話になった人に感謝の気持ちを伝えに行きたい、それが今回の旅のテーマでした。

 韓国は近い。でも当時、東京−ソウル往復の航空券は一番安いものでも3万6千円もしました。5万円ちょっとしか予算がない私にとって、選択肢はただ一つ。それは、青春18きっぷで東京から鈍行列車ではるばる下関まで行き、そこから関釜フェリーで韓国・釜山に渡ることです。この経路だと青春18きっぷ3枚と関釜フェリーの学割往復を合わせても2万円ちょっとで行って帰ってこれて、手元には3万円以上残ります。韓国内の交通費や宿代は安いので、3万円もあれば釜山、慶州、西帰浦にいる「恩人」をそれぞれ訪ねながら旅してもお釣りがくるだろうというのが私の計算でした。

 鈍行列車ほど日本の広さを実感できる乗り物はないでしょう。東京−下関間は1100kmもあり、鈍行を乗り継いでいくと最短で20時間かかるのです。私は「ムーンライトながら(大垣夜行)」に乗って旅の人となり、途中大阪の友人宅で一泊して「王将」の餃子で英気を養って、さらに西へ。途中、尾道・宮島など風光明媚な街で一休みして、山口県ののどかな田園風景を抜けてついに下関へ。そこで出国手続きを済ませ、キムチの匂いの充満する二等船室に潜り込み、韓国人のおばちゃんたちの酒盛りの仲間に入れてもらって焼酎をご馳走になりながら(意思疎通はあまりできなかったけど)、「遠くまで来たんだなあ」と実感。翌朝には、ハングル文字のあふれる港町、釜山の旅人になっていました。

 韓国でも時代は早く流れるようです。前回の旅行からすでに5年半も経ち、釜山でも慶州でも、町の様子はすっかり変貌していました。以前あった家が取り壊されていたり、ようやく家を探し当てても今度は全然知らない人が出てきて早口のハングルでまくし立てられたり・・・釜山と慶州では結局「恩人」にはめぐり会えず、失意のまま最後の訪問地、済州島の西帰浦市を目指し、釜山みなとから再びフェリーの人となったのです。



 釜山〜西帰浦間のフェリーの乗客は20数名、その中で外国人旅行客は私一人でした。船内では軍人風の制服を着たお兄ちゃんと仲良くなりました。彼の口からはハングル以外の単語は一言も出てこず、言ってることの5%も分かりませんでしたが、彼が私のことを気にかけてくれていることだけはよく分かりました。そして私がこれから西帰浦にいる友人を訪ねにいくということはどうやら伝わったようです。

 翌朝、私たちの視界に緑濃い済州島の島影が現れ、しばらくすると相変わらず素朴で垢抜けない西帰浦みなとが静かにたたずんでいました。やがて船足が止まり、投錨。西帰浦の「恩人」、カン・チャンヨプ氏(仮名)は港から西へ10kmあまり行ったところでバナナ農園を経営していて、そこまでどうやって行こうかと思案していたところ、例の軍人風のお兄ちゃんが親切にもカン氏に電話をかけてくれるとのこと、ハングルで電話するだけの語学力がない私はもちろんその好意に甘えました。しばらくして彼が公衆電話から戻ってきて、私に一言、「ここで待ってろ」と。どうやらカン氏が車でここまで迎えにきてくれるそうなのです。その後、お兄ちゃんは短い別れを告げ、慌しく西帰浦の町に消えていきました。待つこと30〜40分、すると、国産車・現代ポニーに乗った懐かしい顔が現れてきました。

 カン氏は当時30歳ちょっと(推定)、相変わらず日焼けした精悍な顔立ちをしていました。5年半前に初めて会った時はきれいな奥さんと2歳くらいの女の子と静かに暮らす20代の素朴な農村青年でしたが、その頃とほとんど変わらない若さを保っていました。彼もハングル以外一言もしゃべりませんから話はほとんど分かりませんが、カン氏に日本のお土産を渡してお礼の言葉を伝えると、いかにも嬉しそうな表情をしていました。彼は早速、港近くにあるプルコギ(焼肉)屋に案内してくれて、そこでたっぷりとご馳走してくれました。テーブルには肉がこれでもかこれでもかっていう程出てきて、二人とも満腹。お勘定をみると結構な値段(私が日本で買ったお土産の3倍以上の額)で、一体どちらが恩返しに来たのか分からくなってしまいました。

 その後、カン氏は私を自宅に連れていってくれました。車窓に広がるのは、5年半前と全然変わらない、どこか懐かしさを感じさせるのどかな西帰浦の風景でした。北の方角には漢拏(ハルラ)山が優美な山すそを広げ、南側には樹叢の蔭から垣間見える青い海。この年は暖かい済州島にも雪が降ったそうで、道路脇にはところどころ雪が残っていました。しばらくするとカン氏宅に到着。そこは昔住んでいたバナナ農園から1キロほど離れた、小さな農村集落の質素な一軒屋でした。彼の話によると、バナナ農園は商売にならないので早々と見切りをつけ、今は西帰浦の町なかで働いているそうです。

 家の中に入ると、相変わらずきれいな奥様が笑顔で出迎えてくれました。また、5年半前にはよちよち歩きだった女の子はすでに小学生になっていて、ハングル文字が書いてあるランドセルを背負って近くの小学校に通っていました。どこの国でも歳月を感じさせるのは子供の成長なんだなあと実感しました。そして、カン氏ご夫妻といろんなことを話しました。もちろん、ハングル以外まったく通じないから意思疎通は困難を極めましたが、写真を見せ合ったりしながら数時間も話し続けました。この5年間、この一家は質素ながら堅実に幸せに暮らしてきたんだなあという印象を受けました。

 それからはおもてなしの嵐、お昼は奥さんの美味しい手料理、そして夜は西帰浦市内の食堂で海鮮なべのご馳走(何食べても美味♪)・・・ここまで良くしてもらうとさすがに図々しい私でも恐縮してしまいました。そしてこの思い出を胸に、明日の朝出発することを心に決めました。そしてこの瞬間、私は自分で学生時代にピリオドを打ったのです。恩返しできたかどうかはよく分からないけれど、旅に明け暮れた学生時代の締めくくりとして、最高の思い出ができた・・・その満足感で私の心は満たされたのです。

 次の日、済州島内を西回りして山房山、翰林公園など観光名所を回りながら国際空港のある済州市に到着、ここで福岡までの片道航空券を買い(約9000円、安い!)、安い商人宿に泊まって学生時代最後の異国の夜を楽しんだあと、翌朝には済州エアポートから福岡へ向かう機上の人となっていました。

 かつて秦の始皇帝の家来は西方の故国に帰り、そして私は東方の故国へ帰っていく。機首が東の方角を向くと、私の意識は次第に現実に引き戻されていきました。飛行機に乗ると韓国〜日本間はあっけないほど近い。離陸してわずか40分後、緑に覆われた九州の大きな島影が見えました。その時、私は自分自身につぶやきました。「もう学生じゃない。社会人になったんだ」と。



 「西帰浦の恩返し」からもう7年・・・その間、私の身辺には結婚、転職、オーストラリア移住などいろんな変化があったわけですが、西帰浦市の変化はもっと大きく、W杯開催都市として一気に世界の表舞台に立つことになりました。国際観光地としての知名度も一気にあがることでしょう。これを契機に、世界中の多くの人々がこの風光明媚な土地を訪れ、地元の人々の暖かい心に触れる機会に恵まれることを切に望みます。