【はじめに】
時代の風は東(東京)に向かって、そして西(福岡市)に向かって吹き抜ける。北九州の空から工場の煙突が一つ、二つと消えていき、街は日に日に寂れていく。若い者はどんどん外に出て、年寄りばかりが残される・・・
北九州はかつて、京浜・中京・阪神と並び、日本の四大工業地帯の一翼を担っていました。でもそれは遠い昔の話。1901年の八幡製鉄所開業以来、市の屋台骨を支えてきた鉄鋼業・化学工業が構造不況業種といわれるようになってすでに久しい。工業の衰退と歩調を合わせて、市の人口は20年来減少の一途をたどり、高齢化が急速に進んでいます。小売業の空洞化も進んでおり、買物客はどんどん福岡市に流れていきます。
でも、暗い話題ばかりではありません。この都市は、いま本気で生まれ変わろうとしています。環境、生命科学、情報技術などに象徴される21世紀型の新しい産業を興し、先進的な都市として復活しようと死に物狂いで取り組んでいます。もしこの試みが実を結べば、北九州市は21世紀を象徴するエキサイティングな都市になれるかもしれない。あるいは、公害問題、産業空洞化、高齢化を全て克服した100万都市として、世界のモデルになれるかもしれない。そういった意味で、私がいま日本で一番注目している都市、それが北九州市なのです。
【北九州と私】
私にとって、北九州は思い出深い街です。今から7年前、'94年の暑い夏、社会人1年目の私が初めて出張した先が北九州だったのです。出張の目的は2つ、一つは(注1)流動層燃焼の国際シンポジウムで研究発表すること、もう一つは中国人参加者の通訳兼アテンドをすることです。
(注1)流動層燃焼(Fluidized Bed Combustion):粉体を流動化させた環境で物質を燃焼させる技術。石炭火力発電やゴミの焼却炉などに広く応用されています。
JR小倉駅の寂しい裏口にオープンしたモダンな北九州国際会議場で行われたシンポジウムは、「えっ、これが日本?」とビックリするくらい、世界各国からの学者、研究者で賑わっていました。特に、寒い国ゆえに燃焼技術には定評のあるフィンランドやスウェーデン、そして激しい公害とエネルギー問題に悩む中国からの参加者の姿が目立ちました。
研究テーマの関係で、参加者一行は若松火力発電所(若松区)と三菱化学(八幡西区)の循環流動層ボイラの視察に行きましたが、そこで説明される難しい技術用語を中国語で何と訳せば良いのか分からず、冷や汗をかいたこともありました。夜は夜で、仲良くなったフィンランド人を小倉駅南側の場末の居酒屋に連れていってロシアの悪口で盛り上がったり(失礼!)、中国人の一行を小倉そごうの階上レストランに連れていって、100万都市にしてはちょっと寂しい夜景を眺めたりと、連日大忙しでした。
その3年後、私は東京で転職し、ほどなく福岡市に転勤になりました。アウトドア好きな私にとって、北九州地域にある山(皿倉山、足立山、平尾台など)と海(波津漁港、和布刈海岸など)は定番コースの一つでした。実際、北九州は工業都市のイメージとは逆に空気は澄み、海と山がとても美しいな所で、一帯は北九州国定公園に指定されています。全国政令指定都市のなかで市の名前がそのまま国定公園になっているのはここだけでしょう。
【激動の北九州】
私の初出張から7年が経ち、この間北九州市をとりまく環境は激変しました。その変化を一言でいえば、「旧い北九州の衰退」と、「新しい北九州の創出」でしょう。
旧い北九州の衰退
全体としてみると、ここ20年余りの北九州経済は停滞どころか衰退の一途です。特に、重化学工業都市としての衰退はものすごい勢いで進んでおり、解体過程にあるといっても過言ではないでしょう。実際、1985年から99年までの14年間で、市内の工業従業者数は28%、製造品出荷額は30%も減少しています。国のエネルギー政策の転換(石炭→石油)、円高による競争力低下、バブル崩壊後の日本の長期不況が立て続けに起こり、鉄鋼・化学に大きく依存する北九州工業は窮地に陥っています。市内最大の事業所、新日鉄八幡製鉄所では最盛期には4万人以上いた従業員数は今では1万人を切っています。
工業の衰退と並行して、商業も目に見えて後退しています。2000年末には市の中心街、小倉と黒崎からそごう百貨店が撤退し、人口100万の政令指定都市にもかかわらず現在市内にある百貨店は井筒屋しかない状態です。さらにその人口自体、このままいけば100万人を切るのは時間の問題とされています(直近の人口は100万8千人)。しかも高齢化率は全国政令指定都市の中で断然トップ(18.5%)を走っています。
さらに福岡市一極集中がそれに拍車をかけます。福岡県は製鉄の北九州、炭鉱の筑豊・大牟田など構造不況地域を多く抱えていますが、それらの地域で職にあぶれた人々を吸収したのは福岡市です。東京の支店経済都市、「九州の首都」としての拠点性を武器に、福岡市は大発展を遂げ、今や「日本で一番元気な都市」と呼ばれるほどの活況を呈しています。福岡市の中心街・天神には大型百貨店、ベイエリアにはトレンディスポット、郊外には超大型店舗がひしめき、都市としての魅力は北九州を圧倒しています。そのため、北九州から買物客や通勤客が福岡市へ流出するのは現時点では止むを得ない状況になっています。
新しい北九州の創出
急速に活力を失い、しぼんでいく北九州。この街に明るい未来はやって来るのでしょうか?現時点では何とも言えません。が、明るい未来を予感させるような動きはいくつか出てきています。
中でも目覚しいのは、環境都市としての発展ぶりです。北九州はかつて大変な公害都市でした。高度成長期には工場から数キロメートル離れた所にも煤煙が降り注ぎ、洞海湾には船のスクリューも溶けてしまうほどの廃水が満ち満ちていたそうです。しかし北九州市は大学、産業界、行政が三位一体になって対策に乗り出し、その結果激しい公害をごく短期間で克服し、青空を取り戻したのです。その実績は世界中から「公害対策の手本」と称賛され、1992年の国連地球環境サミットでは日本で初めて「国連地方自治体表彰」を受賞しています。
1990年代の北九州市は、公害対策で培った高い技術力を活かし、新しい産業に育てていこうといろんな手を打ってきました。その代表的存在が北九州エコタウン事業で、リサイクル先端技術の研究と中小・ベンチャー企業によるリサイクル産業の統合を目指した先駆的な試みが行われています。また、国内最大のスーパーごみ発電システムにより廃棄物のエネルギー利用を推進したり、'97年に福井県越前海岸に漂着したロシア船籍タンカー「ナホトカ号」の廃油の処理も北九州市で行なうなど、数々の実績を挙げてきました。
また、産業技術を核とする国際化、特に隣接するアジア諸国との関係強化の動きも目立ちます。例えば、(財)北九州国際技術協力協会では、海外研修生を対象とする産業研修を20年以上にわたって実施してきましたし、また北九州国際会議場等を活用した学術・技術交流の動きも盛んです。さらに、北九州港を国際競争力ある港湾として整備することにより、アジア各国との物流拠点になろうという、環黄海ハブポート構想も主要プロジェクトの一つです。こうした環境とアジアにこだわり続けた積み重ねが、2000年のアジア・太平洋環境大臣会議の北九州開催につながったのでしょう。
最近の動向としては、学際、国際、産学連携をキーワードとする21世紀型のリサーチパークを目指す動きがあります。その代表的存在が、今年4月にオープンした北九州学術研究都市です。この西日本最大級の学術都市には、公立大(北九州市大)、私立大(早稲田大)、国立大(九州工大)のほか英国(クランフィールド大)とドイツ(国立情報処理研究所)の研究機関、福岡県リサイクル総合研究センターが中核メンバーとして参画しています。核となる学問分野は生命科学、環境科学、情報工学などいずれも21世紀の人類にとって大きなテーマとなるものです。また学際研究を促進する単位互換制、留学生・社会人に広く開かれたカリキュラム、さらに産学連携やベンチャー企業創出を継続的にコーディネートする機関の創設など、画期的な内容が盛り込まれています。
【ベンチャー魂−北九州市役所】
新しい北九州を創ろうという一連の動き、そのほとんど全てに関わっているのが北九州市役所です。最近10年間、この市役所は都市再生を目指して獅子奮迅の動きを見せてきました。その斬新さ、貪欲さ、フットワークの軽さはもはや行政機関というより、ベンチャー企業に近いものがあると思います。
もともと、北九州には「日本初」を良しとする伝統があります。1901年、日本で初めて本格的な製鉄の火が点されたのは北九州の八幡でしたし、時代は下って1963年、筑前・豊前両国にまたがる5都市の対等合併という、世界初の試みを実現したのも北九州です。この都市では、旧套墨守とか、前例にこだわるような文化は行政にさえも存在しないようです。
1990年代、北九州経済が危機に陥ったこの時代、市役所は以前にも増してベンチャー魂を発揮してきました。この期間、実に多くのプロジェクトが実施されたわけですが、大きなものだけ見ても、「日本初」のオンパレードなのです。例えば・・・
- 1993年3月:北九州市が全国最初のFAZ(Foreign Access Zone、輸入促進地域)指定を受ける。
- 1997年4月:CCA北九州の設立。全国初のコンテンポラリーアート(現代美術)専門の学習・研究機関
- 1997年7月:北九州市が全国最初のエコタウン事業指定を受ける。中小・ベンチャー企業によるリサイクル産業拠点の試みは全国初
- 1998年:全国初の市有地を活用した定期借地権付住宅団地「ガーデンヴィレッジ天神」の発売
- 2000年1月:全国初の「駅から100円、駅まで100円バス」の試行
- 2000年2月:全国初の環境共生型高層住宅「マテール穴生」の発売
- 2000年8月:北九州情報通信革新技術推進会議(KTIC)発足。先端的な情報通信技術の研究開発から事業化までを自治体が推進する全国初の試み
- 2001年4月:北九州新大学構想。国・公・私立大学を同じキャンパス内に集積させる全国初の試み
- 2001年7月:ジャパンエキスポ北九州博覧祭2001の開催。都道府県以外としては全国初の開催
これらは都市行政の施策として斬新であるだけでなく、目的意識が明確で理にかなっていること、かつ一貫性、継続性があること、その点を私は高く評価しています。したがって国際的な評価も高く、UNEP(国連環境計画)から「グローバル500」、国連地球環境サミットから「国連地方自治体表彰」などを受賞しています。
親方日の丸であるはずの都市行政が、なぜここまで新たな試みを次々と打ち出し、実行することができるのか、その理由はおそらく、@末吉市長のリーダーシップ、A都市経済崩壊の危機感にあると思います。
1987年以来一貫して市長の座にある末吉興一市長はもと建設省の官僚出身、北九州市長に就任してからは、危機に瀕したこの都市の産業を立て直すことを主眼とする、北九州ルネッサンス構想を打ち出し、まるでベンチャー企業の社長を思わせる斬新なアイデアと実行力で市政をリードし続けてきました。彼の著書「挑戦〜百万都市北九州の再生にかける〜」は私も読んで感銘を受けたものです。さらに末吉氏は、「前例がない、予算がない、法令がないを理由に、思考や行動を止めるな」、「行政は一切のタブーにとらわれず、聖域に踏み込め」という名言も残しています。
さらには、市の職員、産業人、一般市民の間に北九州経済崩壊の危機感と、都市再生にかける意欲が広く共有されているのではないかと思います。日本の大都市としては例のないスピードで産業が解体していく局面では、前例などにこだわっている余裕はない、あらゆる機会をとらえ、リスクを恐れず、いろんなことに挑戦しなくては本当にダメになる・・・おそらく、そういう意識で仕事しているんだと思います。
【前途は厳しいが】
行政が中心となって、都市再生に向けて必死の試みが続けられている北九州市、その行く手は前途洋々なのでしょうか?客観的にみて、現時点では「前途は厳しい」と言わざるを得ません。事実、末吉市政の14年間、関係者の懸命の努力にもかかわらず市の経済状況は悪化する一方なのです。もっと正確にいえば、新たな産業創出の試みはまだ先行投資の段階で、実を結ぶのはしばらく先の話なのに対し、既存産業の衰退・崩壊は日々刻々と進行しているのです。
また、長引く不況により市の財政状況も苦しくなっているうえに、さらには国家財源の財布のヒモも固くなってきているので、今後北九州市として新しい手を打ち続けるだけの財源が確保できるのかどうかという懸念もあります。これから立ち上がる新産業が軌道に乗って雇用と税収を生み出すようになるまで、市財政は苦しいやりくりを強いられるでしょう。また、厳しい不況が長期化するなかで、産業界や市民が都市再生の意欲をなくしてしまうリスクもあるでしょう。
北九州経済の衰退は、行政だけの努力では動かし難い「時代の流れ」なのでしょう。いくら努力して先駆的な成果をあげても、それ以上のスピードで基幹産業が倒れてゆき、都市の活力は弱まるばかり、苦境は深まるばかり・・・それが現実なのでしょう。
でも、やるしかないのです。20世紀に鉄を育て、公害を克服した近代都市のプライドがある限り、21世紀の新しい産業都市として復活する日まで前進を続けるしかないのです。さもなければ過疎地になるか、福岡市のベッドタウンに成り下がるしかなく、産業都市「北九州」の名は過去のものとなってしまうのです。
いま小泉政権と日本国民は大変厳しい経済状況と戦っているわけですが、一方北九州市はそれに数倍する悲惨な経済状況と20年以上も戦い続けてきたのです。私たちは今こそ、関門海峡に面したこの都市に目を向けるべきなのです。日本経済を再生させるために今何をなすべきか、将来に夢を持てる国にするためにはどうすればいいか・・・北九州の経験から学ぶことは無限にあります。
都市再生にかける北九州市の努力を知ったことにより、私自身のものの見方も大きく変わりました。いま世の中には、統計数字だけを見て、またはセンセーショナルな新聞の見出しに躍らされて、あるいは自分の限られた見聞だけを根拠に、いとも安易に「だから日本(人)はダメなんだ」とか言ってしまう人が何と多いことでしょう。でも、表面的な事象の裏には人間の日々の営みがある、あるいは熱意を持って仕事に打ち込む人々の姿がある、どんな苦境にも挫けず、未来に夢を持ち続ける人々の無限の想像力がある・・・それを全て見落としてしまうようなものの見方って、なんて貧相なものなんでしょう。人間の社会って、そんなもんじゃないはずです。一人一人の血の通った人間と出会い、共鳴しながら考えていかないと、生きた社会のことなんて何一つ分かるわけはないんです。私は北九州の人たちと出会ったことによって、それを学びました。
最後になりますが、いつの時代でも、人々の熱意が歴史をつくるのだと思います。北九州の人々の熱意が21世紀に花開き、「北九州新時代」をつくっていけるのか?私は是非そうあって欲しいと思うし、また彼らならこの先何十年かかっても、いつかは成し遂げてくれそうな気がします。それまでは熱いエールを贈り続けていきたい。そして、彼らとともに、「頑張った者が報われる」21世紀をつくっていきたいと思うのです。
鉄冷えの町が、世界に誇る環境テクノロジー都市に変身する日は、必ずやってくる・・・